ブログ/2013-07-08
吉川元春館跡(火ぶたを切る)
ミーアキャットです。
昨年の自然研エコバスツアーでも訪れましたが,広島県山県郡北広島町の『吉川元春館跡』です。毛利元就は吉川家のお家騒動に乗じて,吉川家の嫡男吉川興経を深川(現在の広島市安佐北区深川)に幽閉し,次男元春を,米・たたら製鉄・木炭などで非常に豊かであった吉川家の養子に送り込みます。元春は長男元長とともに家勢を盛り上げました。
この吉川元春の隠居後の住まいとして,この広大な屋敷が造られたということです(写真-2)。ただ,吉川元春は九州出征の折に病で亡くなったため,この館に住むことは叶わなかったと言われています。
屋敷跡の発掘によっていろいろなものが出ていますが,おもしろいのが便所跡です。大きい桶のようなものですが,大と小に別けられていたようで,大の方からは籌木(ちゅうぎ)という箸のような木や多数の寄生虫卵が発見されているそうです。寄生虫については,川魚をあまり火を通さないで食べていたのでは・・・という説明がなされていました(写真-3。この資料館は撮影OKです。なお,籌木(ちゅうぎ)については,現在食前あるいは食事中の方に配慮して,説明を省略しました。すみません)。
写真-3
屋敷跡で最も目を見張るのが,石垣です(絵-1,入口の両側の巨石は重量が50~60tあるそうです)。その積み方は,7~8mおきに巨石を縦に積み,その他は平積みです。広島城の外堀の石垣の築き方と共通するものがあるそうで,同じ技法を伝える職人の手になるものと考えられています(写真-4)。
写真-4
すぐ近くには花崗岩の石切場や,切り出したものの使用しなかった巨石がそのまま残されています(写真-5~6)。
ここには,吉川元春と長男吉川元長の墓所があります(写真-7~10)。
写真-7
後に元春の三男吉川広家は,尼子氏の月山富田城とその領地を手に入れ,富田城に入城後の天正19年(1591)は14万石となります。
広家は,文禄の役で,文禄3年(1594)に”虎”を,文禄4年(1595)に”豹”を秀吉に献上して,誉められています。
しかし,関ヶ原の戦いの後,岩国藩に移封されて,3万石に減石されました。
この屋敷跡で,毎年10月に『吉川戦国祭り』があり,岩国藩鉄砲隊による火縄銃の射撃があります。メンバーには女性もおられます。
写真-11 吉川鉄砲隊(以下2011.10.10,2012.10.08より編集)
主な撃ち方に『立ち放し』『腰放し』『膝台放し』があり、それぞれ一斉射撃である『斉射』,連射する『連れ放し』があるそうです。
火縄銃は石田流火縄銃といって,残存していた本物を修理して使用しているそうです。隊長の『狙えー』『火ぶたを切れー』『撃てー』の鋭いかけ声と共に,火薬に火縄が落されたとき,空砲ではありますが,轟音と煙は周りの空気を震えさせるすごいものがあります(写真-12~17)。
写真-12
火縄は硝石を混ぜた木綿糸を編んだもので,火が消えないようになっているそうです。火縄が落ちても,時に不発のこともあり,用心して爆破処理されます。鉄砲を持たせてもらったら結構重かったです(写真-18~21)。
写真-18 火縄(木綿糸に硝石が混ぜてある)
石垣の上に,鉄砲隊がホラ貝を吹き鳴らし,吉川の紋所を立てて現れると,戦国らしい光景です。確かに背中に旗をしょって,鉄砲でねらわれると威圧感がありますね(写真-22~23)。
写真-22
ところで,小さい男の子が鉄砲隊のおじさんに質問しました。『鉄砲を持っているのに,どうして刀もさしているの?』『それはね,遠いときは鉄砲で撃って,近くで戦うときは刀でやるんだよ』と優しく説明されていました。
なお,当日『はったい粉』を食べることが出来ます。小麦を石臼で挽いたものですが,子供の頃よく食べました。砂糖を混ぜてお湯で練るだけですが,懐かしい味です(写真-24~26)。
写真-24 石臼で小麦を挽く
コメント