ブログ/2013-11-25
尾関山公園
ミーアキャットです。
広島県三次市(みよしし)の尾関山(おぜきやま)公園です。現地の説明看板にはつぎのように書いてあります。
『標高202m市街地の北隅,清流江の川畔にあるこの公園は,春はサクラ,ツツジ,初夏の青葉,秋のモミジ,月見,冬の雪景にすぐれた自然公園です。もとは小丸積山といって天正年間(1573~1591)三吉氏の重臣,上里越後守の居城としたところですが,慶長六年(1601)福島正則の重臣,尾関石見守正勝が二万石を領してここに入城してから尾関山というようになりました。寛永九年(1632)三次藩主として浅野因幡守長治が入封すると,ここに下屋敷が置かれ,頂上に天文台(発蒙閣)を設けました。大正初期,昔の城郭残塁の段を生かして,広場,遊歩道をつくり,サクラ,モミジなどを植えて現在に至っております。なお,公園南麓にキリシタン灯籠があり,伝導苦難の跡が偲ばれます。』
(1) 鳳源寺(ほうげんじ)
尾関山公園の向かいにある鳳源寺は,三次藩祖・浅野長治が1663年に建立した浅野家の菩提寺です。忠臣蔵ゆかりのお寺で,境内には『大石内蔵助良雄手植えの枝垂桜』,『義士堂』,阿久利姫(後の瑶泉院)の遺髪を納めた『瑶泉院遺髪塔』などがあります。
浅野長治(1614~1675)は,広島藩主・浅野長晟(ながあきら)の長男で,初代の三次藩主を務めました(写真5)。水害を防ぐべく河川堤防の築造,町並整備,寺社の建立・保護を行いました。三次の鵜飼,三次人形も長治によるとされています。
石段を登りきると,阿久利姫像・義士堂・瑶泉院遺髪塔などがあります。
現地の石像の横には概ねつぎのように書いてあります。
『瑶泉院(1669~1714) 三次浅野藩初代藩主・浅野長治の息女,名は阿久利(あくり),14歳にして赤穂藩主浅野内匠頭長矩の許に輿入れし,美貌と天賦の才媛により正室の務めを果たします。1701年,松の廊下の刃傷事件後,直ちに落飾して瑶泉院(ようぜいいん)と称し,生涯をかけて長矩および義士の菩提を弔う一方,義士の遺族の処遇に尽力しました。45歳で没し,瑶泉院は夫が眠る泉岳寺に葬られ,遺髪は故郷の父長治の墓所に近い浅野家菩提寺・鳳源寺境内の遺髪塔に安置されました』(筆者注: 括弧内のふりがなは現地の案内板にしたがいました)
(2) 尾関山公園
鳳源寺の道路の向かいに尾関山公園があります。姫にちなんで名付けられている阿久利園には,清心池や阿久利姫の石像があります。
前述のように,公園は昔の城郭残塁の段を生かしてありますので,何段ものテラスを登っていきます。西条八十作詞,中山晋平作曲の『三次小唄』の石碑もあります(写真19)。
(3) キリシタン灯籠
尾関山公園の南麓には”江の川(ごうのかわ)”が流れていますが,キリシタン灯籠はこの川沿いの散策ルートにあります(写真23~26)。現地の説明には,つぎのように書いてあります。
『この灯籠は,昔は比熊山麓の西江寺にありましたが,キリシタンに対する弾圧が厳しくなったため,江の川に投げ出されたものを拾い上げて,この場所に安置したものと言い伝えられています』
説明板によりますと,巧みに十字架を隠した礼拝物で,灯籠の高さ78㎝,幅24㎝,厚さ20㎝で,形式は旧く,17世紀初期のものと推定されているようです(写真25)。
尾関山公園では,阿久利姫の物悲しい歴史を知ることができました。紅葉はあたかも,数奇な運命を歩み,亡くなってから父の側に帰ってきた阿久利姫の霊を慰めるために色鮮やかになるのでは・・・とさえ思われたのでした。
コメント
- 尾関山の紅葉を初めて見せてもらいました。良いですね。江の川沿いの桜並木も良いですね~。ヌシの故郷の忠海町は三次浅野藩の領地だったこともあり、町内の町割り、お宮の勧請など三次とは関係が深かったようです。代官所が設置され年貢米の積み出し港だったと聞いています。阿久利姫も忠海を起点としていたようです。余談ですが、当会員のSさんは”三次街道”を探しています。 -- ヌシ 2013-11-26 (火) 18:00:25
- 忠海が三次浅野藩の領地であったことを初めて知りました。県北から瀬戸内海までとは広かったのですね。ありがとうございました。 -- ミーアキャットです。 2013-11-26 (火) 18:45:39