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ブログ/2014-01-10

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土生玄碩 (はぶげんせき)

写真1 郡山公園の土生玄碩の碑.JPG
写真1 土生玄碩の碑(郡山公園)

ミーアキャットです。
 講談や映画,舞台の題材に幾度も取り上げられ,男の友情物語として有名な『男の花道』に登場する蘭学医『土生玄碩』は,広島県安芸高田市吉田町出身の江戸時代の眼科医です。

 “男の花道(小國英雄著)”では,人気女方役者の中村歌右衛門が舞台を務めていたときに,客席で見ていた土生玄碩が歌右衛門の目が不自由であることを見抜き,失明寸前のところを手術によって救います。その後の歌右衛門は見事に視力を回復し,以前にも増して舞台の輝きを増すのでした。そして二人は固い男の友情で結ばれ,以後いろいろなドラマが展開していきます。

 この土生玄碩の石碑が,吉田・郡山城の麓の郡山公園に建っています(写真1~2)。

写真2 郡山公園の土生玄碩の碑.JPG
写真2 同上

土生玄碩について,安芸高田市観光課のパンフレットにはつぎのように説明してあります。
                ◇
 「土生玄碩の祖先は渡辺義隆といい足利義教の家臣でしたが,乱を避けて朝鮮に渡り,眼科を修めて帰国,安芸国の土生に住み土生を名乗りました。土生玄碩の八代前,土生義賢は眼科医として毛利元就に仕えました。
 宝暦十二年(1762),玄碩は吉田に生まれ,17歳の時に大阪に出て外科を,京都では内科を学びます。25歳の時に帰郷して開業しますが,再び大阪に出て眼科療法を研究し,眼科手術を考案して名声を得ました。享和三年(1803),広島藩に召し出され,文化七年(1810)には徳川将軍の侍医となります。同十三年(1816)には法眼(ほうげん)に叙せられ,以来眼科医として名声を博しました。
 文政九年(1826),シーボルトが江戸参府の際,玄碩は将軍より拝領していた葵の紋服をシーボルトに与えるという国禁をあえて犯して,白内障に苦しむ人々を救うための薬法の秘伝を受けます。これにより,わが国の白内障手術は一段と進歩をとげたのです。
 しかし,同十一年(1828),シーボルト事件が起こると,土生玄碩が葵の紋服を贈っていたことが露見し,官職を解かれ禁固の刑に処せられました。その後釈放され,嘉永元年(1848)87歳で没しました。」
                ◇

写真3 土生玄碩碑の説明.JPG
写真3 石碑のそばの説明板

 吉田町の商店街の一角には,土生玄碩の生家があります(写真4~6)。

写真4 土生玄碩生家.JPG
写真4 土生玄碩の生家

写真5 土生玄碩生家.JPG
写真5 同上

写真6 土生玄碩生家.JPG
写真6 同上

写真7 土生玄碩生家の説明.JPG
写真7 生家の説明板

 この生家は,現在は『毛利公』という最中(小豆と柚餡)を販売しているお土産店となっています(写真8)。

写真8 毛利公の最中.JPG
写真8 最中

 土生玄碩の石碑が建つ郡山公園は,毛利時代の興禅寺跡で,毛利元就(1497~1571)が永禄十年(1567),京都から能役者観世大夫宗節ら一座20人を招き,この寺で能狂言が催されたことが記録にあるそうです。この公園は,寺跡に大正四年に築造したものということです。

 平成5年(1993)に,毛利元就生誕500年記念行事計画が着手されますが,その一環としてNHK大河ドラマの誘致活動が行われ,平成9年(1997)にNHK大河ドラマ『毛利元就』が放映されました。毛利元就役の中村橋之助さんが,同年この公園にモミジ・サルスベリを記念植樹されています。
 下の写真はその生誕500年記念行事当時の包装紙です。毛利氏の家紋と500という数字が上手に組み合わされています。

写真9 毛利元就生誕500年行事の包装紙.jpg
写真9 毛利元就生誕500年記念

写真10 毛利氏の家紋.JPG
写真10 毛利氏の家紋

 ところで,前記文章中,文政九年(1826)にシーボルト(1796~1866)が長崎から江戸幕府を表敬訪問したことが出てきますが,この年はオオサンショウウオにとって記念すべき年でもあります。小原二郎博士(初代広島市安佐動物公園園長)著作の『大山椒魚 オオサンショウウオ,1985』にはつぎのように書かれています(一部要約し,新住所表記を追記しています)。
                 ◇
 「シーボルト一行は1826年3月1日,下関から船で東へ向かい,室津(現在の兵庫県たつの市御津町室津)に上陸して陸路をとり,坂の下(現在の三重県亀山市関町坂下)に来た時に,門人の一人,湊(みなと)長安が一匹のオオサンショウウオを持ってきた。このオオサンショウウオは鈴鹿山脈のどこかの渓流で捕らえられたと思われ,この日は3月27日とある。江戸には4月10日に着き,約1ヶ月間滞在した後5月18日に帰途につき,7月7日に長崎に帰り着いた。三重県で入手したオオサンショウウオを,どのような飼い方をしていたか知る由もないが,とにかく生きたまま長崎まで持ち帰ったのである。
 1829年12月30日,シーボルトが帰国のために出島を離れる荷物の中に,生きたオオサンショウウオが入っていた。シーボルトは日本からの帰途,オランダの植民地バタビアに一ヶ月余り滞在し,1830年7月7日にオランダに帰着した。シーボルトが生きたままヨーロッパに運んだオオサンショウウオは,オス,メス二匹だったという。しかし残念なことに,このうちメスは航海中に死に,オランダに無事着いたのはオス一匹だけだったといわれている。そして,一緒に持ち帰った数々の標本類と共にライデン博物館に収められた。オオサンショウウオはその後アムステルダム動物園に送られ,1881年6月3日に死んだものと思われる。」
                 ◇
 このようにシーボルトは,オオサンショウウオを自分の管理下で4年3月あまり飼育し,その後オランダのライデン博物館およびアムステルダム動物園でおよそ51年間生きたことが記録されています。ブログ/2013-10-11でヌシさんが紹介されたオオサンショウウオの絵は,このシーボルトの日本の動物に関する業績を表した『FAUNA JAPONICAファウナ・ヤポニカ(日本動物誌)』に載っていることが上記の小原博士の著書に紹介されています。
 また,この絵は,1973年に生駒義博氏により出版された『日本ハンザキ集覧GIANT SALAMANDER,岡山県津山市津山科学教育博物館発行』の表紙を飾っています(写真11,資料はヌシさん提供)。

写真11 ハンザキ集覧.jpg
写真11 『日本ハンザキ集覧』の表紙

 少し誇張されて描かれている感じはしますが,よく特徴をとらえたまぎれもない名画といえるでしょう。
 土生玄碩の話から,シーボルト,さらにはオオサンショウウオと連想するままに書き連ねました。長くなってすみません。
          

    土生玄碩 ⇔ シーボルト ⇔ オオサンショウウオ



コメント

  • これまで幾度か最中を土産に買ったことのあるお店。恥ずかしながら知りませなんだ。ギョギョギョORジェジェジェでがんす。 -- かやネズミだす 2014-01-10 (金) 22:13:16

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