ブログ/2014-01-23
かずき
ミーアキャットです。
『門構えに屋』という漢字があります。以前に郷里の江戸時代の古文書『国郡志御用ニ附下調書出帳,文政二年(1819)』にこの文字が出てきて,読み方も意味も分からなかったのですが,たまたま,『千代田町史の資料から,1997,千代田町役場編集』という本の近世資料編に『かずき』と読むということが出ていました。その資料の一部を引用しますと下記のとおりです。(注:旧広島県山県郡千代田町は,現在は山県郡北広島町です)
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「江戸時代の資料を見ていると、『𨵱』という、あまり見かけない漢字に出会うことがあります。この字は『かずき』と読みますが,帽子をかぶるように,人の借金を『かぶる』、つまりみんなで一緒に年貢などを負担することを言います。
『𨵱』にはいろいろありますが,『川成(かわなり)』といって、洪水などで田畑が流されてしまったため、その土地にかかる年貢をみんなで負担するのが一番代表的な例です。川成地がない村もありますが、耕地の二割くらいが川成地という村が普通で,中には半分くらいが川成地という村もあります。当然のことながら,大きな川の流域に川成地が多い傾向にありますが、こんなに川成地が多いと年貢の負担が大変だったような気がします。」
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実際にこの漢字を使用した地名が、広島市安佐北区安佐町久地に残っているのを見つけました(図1~2)。
広島県廿日市市吉和の冠山に源を発し,広島湾に注ぐ一級河川”太田川”が大きく蛇行してできた,滑走斜面側の河岸段丘面が『野𨵱(のかずき)』という地名です。また,ここで大田川を渡る橋梁は『のかずきばし』と命名されていました(写真2,ただし漢字では難しかったと見えて,野冠橋と書かれています)。
この場所の地形的特徴は,太田川が氾濫したときに洪水の影響を受けやすい地形のところですから,上記町史資料の『川成地』に相当するものと思われます。これにより,その土地が『𨵱地』の対象となったため,『𨵱』の地名が残っているのかな・・・とひとりで想像しています。
この野𨵱から,太田川の下流へ直線距離で約8.5㎞の左岸側に,明治時代の発電所の建物があり,現在は太田川漁業協同組合と書かれています。ここに,過去の洪水の高さが示されています(写真3~7)。
写真8~9には,洪水が最も高かった昭和18年の記録を記入してみましたが,まさに驚くべき高さであることが分かります。太田川の両岸の河岸段丘は完全に水の下です。
これらの洪水記録を見ますと,前記の野𨵱付近の河岸段丘部分が『川成地』になることが納得されるように思いました。
ところで,広島藩では江戸時代の初めの慶長六年(1601)に入封した福島正則の検地により,村の耕作面積と村高(検地帳における村の予想収穫量)を確定し,以後の年貢の納入は村の責任とする村請制とされました。この検地はかなり強引に行われたようで,畠・荒れ地・川成地はもちろんのこと,雨池・溝(用水路)・道・土手・屋敷地なども米の課税対象面積に組み込まれたようです。実際には収穫が出来ないこれらの土地に相当する年貢は,村全体の共同負担となっており,これを,文政二年(1819)作成の『国郡志御用ニ附下調書出帳』では,村の『𨵱高(かずきだか)』と言っています。(なお,享保時代の古文書では『かつき高』と書かれており,廿日市町史では『かつぎ高』と書かれています)
なお,広島県立文書館で聞いた話によりますと,『𨵱』という語句は広島藩固有の語句のようです。
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