ブログ/2014-02-14
国史跡・広島城 (2)
ミーアキャットです。
城の石垣の積み方にはつぎの3種類があるといわれています。
①野面積み(のづらづみ)
自然石をそのまま積んだもの。
②打込み接(うちこみはぎ)
荒割りした石の大きさをおおまかにそろえ,接合部分を少し加工して隙間を少なくしたり,積み石の間に小さな石を積めて隙間を減らした積み方。
③切込み接(きりこみはぎ)
加工した石材を密着させて隙間がないように積む工法。
広島城内には,毛利輝元(1553~1625)が築いた石垣がそのまま残っている部分は少なく,後の福島正則(1561~1624)や浅野氏の時代,あるいは近代に積み直しされたものが多いと考えられています。その中で,毛利輝元の時代の典型的な石垣が残っているのが天守台の石垣で,前記の『野面積み』と『打込み接』の積み方の中間的な手法だそうです(『しろうや! 広島城,財団法人広島文化財団発行』より引用)。石垣の角部に,慶長10年(1605)以降に多用されるようになった『算木積み(石材の長い面と短い面を交互に積み上げる手法)』もまだ不完全です(写真25~29)。
これらの石材は,カキなどの貝殻の付着や材質から,広島湾の海岸線付近から集められたものと推定されています。
一方,天守台から東に延びる石垣は『打込み接』で築かれています(写真30)。その中には石材に刻印が認められものがあります(写真31~32)。この刻印の意味は不明だそうですが,福島正則の統治時代の慶長8~13年(1603~08)に築かれた現在の大竹市の城にも同様の刻印が確認されることから,福島時代の石垣と考えられています。
元和元年(1615)に徳川幕府は,大名の居城の普請は幕府への事前の届け出を必要とする武家諸法度を制定していました。福島正則は,元和3年(1617)に大洪水に会って破損した広島城の改修を行いましたが,事前の届け出をしていなかったことが幕府の怒りを買い,修復した石垣や櫓を壊すことを命じられました。この時に壊した石垣が下の写真の部分と言われています。写真30から続く打込み接の石垣の先端部です(写真33)。
しかし,正則はこの事件を契機に,元和5年(1519),芸備両国を没収され信濃へ退去となりました。
ところで,石垣の最大の敵は水だそうで,大雨で崩れることを防止するために,所々に水を抜く樋門が設けられています(写真34)。
内堀沿いの石垣を見ると,連続した石垣ですが,あるところでは野面積みに近いような石垣もあり(写真35),別の所では打込み接と算木積みが整然と築かれているところもあります(写真36~37)。
昭和20年(1945)8月6日の原爆により,天守閣は倒壊し,門や櫓は火災によって焼失しましたが,あちこちにこの火災時に焼けただれた石が残っています。
写真38~39は表御門の石垣です。また,写真40は中御門の石垣で,原爆時の火災により変色したと考えられています。
堀にはカモが多数群れをなしていました(写真41~42)。
ハトやスズメもすぐ近くに集まり,賑やかなことです(写真43~44)。
コメント
- このたびのブログの出展も広島城総合案内パンフレットとは思いませんが、広島城の石垣については、故楠見久先生(広島文理科大学第1期生・学校教育学部教授・広島県文化財保護委員会委員長)を中心に調査された「広島城の石垣調査報告書」とともに、「広島城の石垣展」解説書(1990、築城400年記念)、78ページが発行されています。石材の産地や岩石学的記載、刻印のことなど詳しい記述があります。(読み直して、専門家による調査の意味を改めて認識しました)。この冊子に興味のお持ちの方にはお貸しいたします。 -- 沖村雄二 2014-02-16 (日) 20:03:42