ブログ/2014-04-25
天下墓・足利義昭
ミーアキャットです。
広島県安芸高田市美土里町と島根県邑南町の県境付近に,室町幕府第15代将軍・足利義昭の墓があります。
国道433号から県道6号に分岐し,広島県から島根県に入るところに,『従是南 安藝國』という趣のある石碑が建っています(写真1)。
墓所に上がる道は,石碑の南側,県道のすぐ西側です(写真2~3)。
天正元年(1573),足利義昭は織田信長に京都を追放され,室町幕府が滅びました。追放された足利義昭は,備後国の鞆に上陸して,ここに通称『鞆幕府』を開いて,各地に親書を発行しました(ただし,実効性はなかったようですが)。そして,毛利氏を頼り,小早川隆景や吉川元春に援助を求めました。
鞆はかつての足利尊氏にとって,由緒ある場所であったようです。
足利義昭はそのうち毛利氏とも不仲となり,当時毛利氏と敵対していた尼子氏を頼るため,山陰に向かう途中に美土里町で亡くなったという話です(写真4)。
とても小さいお墓です(写真5~6)。
ところで,天正元年(1573)より前の永禄9年(1566)には,吉川元春が尼子義久を討ち,出雲の月山富田城を開城させています。
これは,尼子氏の滅亡ではなくて降伏の意味で,尼子氏は戦国武将としての地位を失ったことを意味します。尼子氏の残党は月山富田城開城の後も,織田信長などの援助を受けて,たびたび尼子氏の再興を画策し,毛利氏と小競り合いがありました。それで,毛利氏と不和となった足利義昭は,尼子氏の残党を頼って向かったものと思われます。
毛利氏の家臣には,尼子氏を全滅させた方が後世に禍根を残さないという意見もあったようですが,毛利元就の意見により大半が残されたそうです。その後,尼子氏の家臣から毛利氏の家臣となって後世まで仕えた者もいます。蛇足ですが,この戦は長期戦であったため,吉川元春は富田城包囲陣の中で,太平記40巻を書写するという快挙をしたそうであります。
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