ブログ/2014-05-21
久喜・大林銀山
ミーアキャットです。
島根県邑南町に久喜・大林銀山遺跡があります。先日の記事の『天下墓・足利義昭ブログ/2014-04-25』のすぐ北です。現地の看板には概ねつぎのように書かれています。
古文書によりますと,建久年間(1190年頃)に,岩屋地内で銀鉱脈が発見され,永禄三年(1560)には温泉蒼(ゆのそう)で新鉱脈が発見されたと伝えられています(写真2)。
温泉蒼の尾根上には多くの露頭掘りの跡が残されており,久喜・大林銀山の開発はこのあたりから始められたものと考えることができます。
久喜・大林銀山は,戦国時代の終わり頃,毛利元就によって開発され,江戸時代は徳川幕府の天領とされ,銀や銅・鉛の採掘が行われていました。石見銀山の一翼を担った銀山です。
この銀山がいかに重要視されていたかは,慶長五年(1600)関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が,わずか10日余りで大森と共にこの久喜・大林銀山を接収していることからも伺えます。
大林銀山には,銀山従事者やその家族や関係者など多くの人が住んでいました。慶長七年(1602)に作られた検地帳『石州邑智郡大林銀山屋敷帳』には,屋敷数が176箇所記載されており,千人以上の人々が住んでいたことがわかります。
その規模は,当時の銀の積み出しや,北前船の寄港地として栄えた温泉津港(ゆのつこう)と同程度だったと言われています。
銀山の繁栄ぶりは検地帳に記載されている屋号等からも推定でき,銀山従事者のほか様々な職業の人たちがいたこともわかります。
鉱石から銀を精錬する仕事に携わった『吹屋(ふきや)』,銀鉱石を採掘する道具などを作った『鍛冶屋』,銀山での厳しい仕事の疲れを流してくれる『風呂屋』,『髪結』,『煙草屋』などありました。
『たばこ』は1570年頃ポルトガルから伝わりましたが,その僅か30年後『たばこ』の商いをする人が大林に住んでいました。
このように大林は,銀山の繁栄と共に多くの人が集まり,活発な経済活動を繰り広げた『鉱山都市』であったと言えます。
◇
久喜銀山2号間歩は,明治33年(1900)に掘られた水抜き間歩ですが,銀鉱脈に当たり,多くの銀を産出したということです。現在も多量の湧水が流出しています(写真1,3)。
この久喜・大林銀山跡には大小200箇所を越す間歩群があるそうです(写真4~9)。
久喜・大林銀山資料館内には,多くの鉱石のサンプル・使用された道具・地図・写真などが展示されています(写真10~11)。
また,大林銀山・山の内精錬所跡付近から,鉱石を製錬する前に粉砕する土台の石として使用した『要石(かなめいし)』が発見されており展示されていました。江戸時代のものだそうです(写真14)。
久喜・大林銀山には精錬所跡が24箇所あるそうで,久喜銀山2号間歩(写真1,3)の川を挟んで対岸には,明治時代の精錬所跡があります。木炭と石灰(写真18)を触媒に使用し,銀や鉛を抽出していました。
精錬所の横には,面積30a,厚さ数mという大量の鉱滓捨て場があり,『からみ原』と呼ばれています(写真20)。
大林には,銀吹山品龍寺(ほんりゅうじ)というお寺があります。参道の入口には垣囲いがあり,ツヤツヤと青光りする松脂岩(しょうしがん)の大きな岩が2個大切そうに安置されていました。何かいわれがあるのでしょうか。参加された地質専門家の方から,この松脂岩は久喜・大林銀山の近くに産地があると聞きました(写真21~23)。
毎年4月には,ここ久喜・大林銀山遺跡で『銀山まつり』があり,記念講演や間歩群などの遺跡巡りがあります(写真24~26)。
コメント