ブログ/2014-06-12
吉川元長
写真1 吉川元長の居城の槙尾城跡遠景 (2014.5.18)
ミーアキャットです。
吉川元長(1548~1587)は,毛利元就(1497~1571)の次男吉川元春(1530~1586)の長男で,毛利元就の孫に当たります。
先日,広島県山県郡北広島町にある『吉川元春館跡資料館 戦国の庭歴史館』主催の,吉川元長の史跡ハイキングに参加しました。参加者は45名で遠くは山口県からも参加されていました。講師はいつものように広島県教委のKさんです。
当日の資料によりますと,吉川氏は1221年に駿河国(現在の静岡県)の吉川氏が大朝の地頭職を得て,14世紀後半までに大朝本庄に移り住んだとされています。そして,1400年頃に,吉川氏の居城である小倉山城を築城したそうです。その後,1545年頃,吉川氏の養嗣子として入った吉川元春の時代に,日山城(ひのやまじょう)に本拠を移しています。
北広島町吉木に槙尾城(まきのおじょう)跡という城跡があります。標高350mの山です(写真1)。古文書によりますと,ここ吉木村は,元は熊谷氏の所領であったものの,笠間氏が不法に実効支配していたというのです。したがって,この槙尾城は,16世紀前半には笠間氏の居城であったと考えられるそうです。しかし,山口の大内氏とその家臣陶(すえ)氏との争いの際に,笠間氏は大内方に付いたため大内氏と共に滅びてしまいます。一方,陶方に付いた吉川元長は生き延びて,16世紀後半にはこの槙尾城を居城とし整備したということです。
槇尾城跡には9段の郭(くるわ)があります。広島県内には1,315箇所の城跡が確認されているそうですが,その中でこの槙尾城跡は中規模に相当するそうです。およそ100×150mくらいの面積です。郭と郭の間には,竪土塁がかなり残っています。当日は快晴でしたが,最上段の本丸で説明を聞いているうちにかなり冷えました(写真4)。
この本丸の郭に”ごさん竹”という竹があると地元の方に教えてもらいました。
根元の大きさが直径4㎝くらいで,比較的簡単に引っこ抜けるのです。また,根元付近は節間が詰まっていて,杖に最適のように見えるのです(写真5~6)。
下山した後,城跡周囲に巡らせてある”薬研堀(やけんぼり)”を見学しました。これは薬を研ぐ器のようにU型をした堀のため,このように呼称するのだそうです(写真7)。
薬研堀から続いて横堀(凹型)があり,ここから本丸を見上げると急峻な崖(切岸)になっています(写真8)。敵の襲来時に,投石などで防ぐためにこのような絶壁に作られているということです。
槙尾城跡の見学が終わり,隣の山にある長神(ちょうじん)古墓を見学しました。古い五輪塔が5基あります。吉川氏の墓は方形に石を積んだ墓なので(ブログ/2013-07-08),この五輪塔は吉川氏の墓ではなく,誰の墓か不明だそうです(写真9)。
この後,槙尾城跡の対岸にある宇都宮神社に行きました。吉川元長は,槙尾城の整備,万徳院の建立(1575頃)などを行いましたが,この宇都宮神社も元長の建立になるものだそうです(写真10~12)。
この宇都宮神社には,吉川元長が奉納したという棟札があると知られていたものの,長い間行方が分からなかったそうですが,今般それらが発見されたということで見せてもらいました(写真13~14)。
ただ,この棟札は書いてある内容は史実のようだが,次の点から,後世に作り替えられたものと判断されると講師の方から説明がありました。
・文字が明瞭すぎる。
・昔のヤリガンナで板を削ると,表面に鱗状に凹凸ができるが,この板はあまりにも平滑に削られている。
・”四度目建立”と書かれた棟札は他に見たことがない。
・釘穴が丸い。中世の釘は四角である。
中世の棟札は祈祷札として貴重なものであったため,このように後世に社寺の由緒や縁起の類を書き込んで作り替えられていることは多分にあるそうです。
拝殿にはたくさんの奉納絵がありました(写真15)。
すべての見学が終わったのが13時。豊平地区はソバが有名ですが,思いがけなくも,この後,地元の吉木地区の方から”おろしソバ”の接待がありました。ソバの味と地元の方のご厚意が腹に沁みました(写真16~20)。
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