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ブログ/2014-06-27

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木坂文左衛門

写真1 広島市重文・鉄灯籠(かなどうろう).jpg
写真1 広島市重要文化財・鉄灯籠

ミーアキャットです。
 広島市安佐北区可部は鋳物産業が有名で,これは江戸時代に発達したものだそうです。可部の旧道沿いにある明神公園の一角に鉄灯籠(かなどうろう)があり,広島市重要文化財に指定されています(写真1~6)。

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写真2 鉄灯籠

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写真3 細かい細工

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写真4 文化五年の銘

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写真5 説明板

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写真6 船入堀 (川船の発着場)

 この説明板にはつぎのように書いてあります。

 この鉄灯籠は,高さ313㎝,基礎周囲565㎝を測るもので,その大きさもさることながら,全体の調和がとれ,細部の技巧も優れています。鋳鉄銘から本鉄灯籠は,文化五年(1808),可部町の鋳物師三宅惣左衛門により鋳造されたもので,可部町鋳物業の歴史を現在に伝える最古の遺品であるとともに,数少ない惣左衛門の作品のひとつである。
 江戸時代の可部町は,出雲・石見両街道の分岐点にあたり,かつ,太田川にも面した交通の要衝でした。このような状況を背景に,可部町を中心としたこの地域の鋳物業は,江戸時代の後半には藩内最高の生産高を誇り,その中でも三宅家は中核的役割をになっていました。

 また,当時この場所は「船入堀」と呼ばれる川船の発着場で,鉄灯籠には毎晩灯がともされ,地元の人々からは「船神さん」として崇拝されており,現在では金比羅大権現鉄灯籠の名で親しまれています。

 この繁栄した鋳物産業の歴史の中に,江戸末期から明治初期に起きた悲劇『贋金鋳造事件』があります。この子細は『可部南原屋贋金造り事件,中野修作著,2008,可部カラスの会発行』に詳しくまとめられています。
 その中から,時代背景や事件の顛末を引用し,簡単に書きますとつぎのとおりです。
【時代背景】
・18世紀末,外国船が日本の近海に出没し,幕府は対応に苦慮。
・嘉永六年(1853)ペリーが開国を求め,幕府は日米和親条約を結び開国。
・安政五年(1858)井伊直弼は,朝廷や攘夷論者の反対を押し切り,日米修好通
商条約を結ぶ。続いてオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ぶ。
・尊皇攘夷論が高まる。しかし,薩摩は英国艦隊に,長州は英・仏・米・蘭艦
隊に砲撃され,無力を悟る。
・薩長は倒幕を目的とし,江戸幕府に変わる強力な新政権の樹立を目指す

 このような幕末混乱期の中で,広島藩は沿岸防備のために軍備の増強や近代
化を進めました。
【広島藩の動き】
・江戸から兵器職工を招き,小銃や大砲を製造。
・可部の鋳物師三宅半五郎に真鍮製の大砲を製造させる。
・薩摩藩から払い下げの中古銃を,オランダからも銃を購入。
・長州藩と幕府軍の対立の際には,広島城が本営の地とされ幕府軍が終結。大
竹・廿日市が戦場となり,1万人以上の罹災者を出し,藩の財政は緊迫を増す。
・銀札・米札・藩札の大量発行などを行ったが効果無く,大坂の商人から巨額
の借金をしたり,長崎のイギリスの商人からも借金した。
・薩長と同盟を結んでいた広島藩は,大政奉還後の京都御所の警備,備後・備
中の鎮撫,北陸・関東・東北方面への出兵と次々に命令を受け,最終的に総数
2,272名に達し,巨額の費用が必要となった。さらに凶作も追い打ちをかけた。
 ・明治2年の藩財政の状況は,他国及び藩内借財約339万両,異人借財約35
万両に達した。

 このような苦しい状況の下で,広島藩は他の多くの藩と同じように,通貨の偽造という最後の手段に手を染めたのでした。明治元年頃から手始めに二分金貨の鋳造試験を行い,これが成功後,天保通宝の偽造を始めたのですが,この鋳造を命じられたのが,可部で鋳物業を営んでいた豪商南原屋(なばらや)の三代目木坂文左衛門兼教でした。 
 もともと木坂家は熊谷氏の家臣として三入(みいり)に入りましたが,毛利氏に従って熊谷氏が周防に移ったときに,木坂家は南原にとどまって帰農し,その後可部に出て商売を始めています。幕末期の南原屋は,鉄製品を中心として,広島藩内はもちろんのこと,石見・長門・周防・四国・九州・上方にまで販路を広げ,浜田藩の鋼(はがね)の専売権や広島藩の鉄山を采配する特権を得ていたそうです。
 苦慮しながらもこの贋金造りの藩命を引き受けた木坂文左衛門は,前述の鋳物師三宅家の元で働いていた鋳物職人を集め生産を開始したのでした。その後明治政府に露見し,大疑獄事件となりますが,天保通宝の偽造に関しては,木坂文左衛門が藩や職人のことを慮り,自分の一存でやったと口上書を提出したため,責任を被り投獄されました(明治3年)。厳しい取調を受けたことで重病となり,明治4年に牢から出されますが,やつれ果てた文左衛門はまもなく亡くなりました。享年49歳という若さでした。(以上,前記著書より要約引用)

 可部に浄土真宗の勝円寺というお寺があります。境内の墓地に木坂文左衛門の墓があります(写真7~9)。

写真7 勝円寺.jpg
写真7 勝円寺

写真8 木坂文左衛門の墓.jpg
写真8 木坂文左衛門の墓

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写真8 同上(明治四年二月十三日)

 可部の鋳物技術の水準の高さ故に起こった悲しい事件であると言えるでしょう。

 ところで,可部ではこの事件にあやかった『贋金天保銭ベー』というセンベイが販売されています(写真9~11)。

写真10 天保銭ベーの袋の表.jpg
写真9 袋の表側

写真11 袋の裏.jpg
写真10 袋の裏側

写真12 天保銭ベー.jpg
写真11 天保銭ベー 

 袋の表側にはつぎのように書いてあります。
『幕末から明治にかけて,可部の豪商南原屋が広島藩の密命を受け,天保銭の贋金を造って当時困窮する広島の危機を救ったげな』
                               



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