安芸灘とびしま海道の旅
安芸灘とびしま海道の旅
ミーアキャットです。
11月24日は,当自然研の秋の行事・エコバスツアー『安芸灘とびしま海道の旅』に参加しました。総勢18人です。
『安芸灘とびしま海道』とは,広島県呉市の安芸灘大橋(長さ1175m,平成12年開通)を南に越えて,瀬戸内海に点在する下蒲刈島・上蒲刈島・豊島・大崎下島さらには愛媛県今治市の岡村島まで橋で繋がる陸路の愛称で,延長は約24kmです。
(1) 白崎園
安芸灘大橋を渡って下蒲刈島に入ったところには,白崎園というきれいな公園があり,頼山陽(1780~1832)の漢詩の石碑がありました。意味はつぎのとおりだそうです。
『遙遙の船路,行く手には今,朝日が昇っている。心に,明日は母に会えるな,などと思っているうち,朝霧がだんだん晴れて,小舟は織りなす綾波に揺られながら猫之瀬戸を通った』天保元年(1830),頼山陽が竹原から広島に行く途中に,安芸灘大橋の下の猫之瀬戸を通ったときに詠んだものだそうです。
この公園の中心にあるモニュメントは『生・・・土・火・知・空・水』と名付けられており,現代版”五輪塔”のような感じがしました。モニュメントの下側には,カラフルなタイルが敷き詰められ,とても美しいものでした(写真1,写真4~5)。
(2) 観瀾閣
下蒲刈島で最初の歴史的建造物として,『観瀾閣』を見学しました。説明看板を要約するとつぎのようです。
『旧榊谷仙次郎邸。榊谷仙次郎氏は,明治10年に下蒲刈島村に生まれ,日露戦争に従事した後,満州大連にて土木建設業を営み財をなしました。郷里の三之瀬の発展を願い,青年会館の建築,防波堤の築造等多額の寄付をされました。昭和10年に,ここ三之瀬地区に別荘として建築したのがこの観瀾閣で,平成9年に国指定の有形文化財に登録されました。』
(3) 福島雁木(ふくしまがんぎ)
江戸時代,広島藩の福島正則が幕命により,船着の便を図るために造った石段の長雁木(なががんぎ)で,別名『福島雁木』と言っています。参勤交代をする西国大名をはじめ,琉球・朝鮮・オランダの使節も江戸等への往路・帰路とも下蒲刈島に立ち寄り,この長雁木から上陸していたということです。作られた当時は,長さ約113m,11段であったといわれていますが,現在は上部に3段付け足され,14段,長さは約55.5mとなっています。大潮の満潮時には,一番上まで潮が来るそうです。
(4) 松濤園(しょうとうえん)
下蒲刈島の松濤園という回遊式庭園には,江戸時代に広島藩の13人が常駐したという蒲刈島御番所を復元した建物や,各地から移築された旧有川邸(富山県の商家),旧吉田邸(山口県上関の旧家),旧木上邸(広島県宮島の町屋)などがあります。ガイドさんの話によりますと,江戸時代,朝鮮通信使が12回来日し(1607~1811),そのうち11回はここ下蒲刈島に立ち寄っています。船6艘,約120人の規模であったそうです。旧有川邸には,朝鮮通信使が下蒲刈に立ち寄った際に広島藩が盛大な歓迎をしたという様子が再現されています。着飾った大行列を描いた巻物や,もてなしたご馳走の数々は全く驚くべきものです。あいにく撮影禁止で紹介できないのが残念ですが,朝鮮通信使の接待には,準備に約半年,費用は1回におよそ500両かかったそうで,度々来日されたら藩がつぶれると言われたそうです。
松濤園を回遊する道には,旧吉田邸の屋根を吹き替えたときの瓦と,呉市の市内電車の軌道に敷いてあった石が組み合わされていました。
なお,毎年10月には,『朝鮮通信使再現行列』が開催されています。
(5) 昆虫の家(頑愚庵)
戦前に,地元蒲刈より広島宇品に渡って成功された竹本多一氏が建築された数寄屋風の邸宅で,『頑愚庵』と命名された建物を地元に寄贈され,現在は昆虫館になっています。かやネズミさんが,本ツアーの下見の折に感動されたという(ブログ/2013-10-10),昆虫のステンドグラスがすばらしく,見とれてしまいました。職員さんにお願いして撮影させてもらいました。感謝です。
(6) 県民の浜
下蒲刈島から蒲刈大橋(長さ480m,昭和54年開通)を越えて上蒲刈島に渡り,『県民の浜』で昼食でした。ここは『日本の渚・百選』に選ばれています。昼食会場では巨大な看板に歓迎されてしまいました。海鮮丼はとても美味でした。
(7) 高田流紋岩の年代が測定された露頭
広島県には白亜紀の高田流紋岩類が広く分布しています。しかし,この岩体には後から広島花崗岩類が貫入しているため,年代測定が困難であったと言われています。
2012年に,大崎下島久比(くび)の,灰ケ峰層H4デイサイト部層の”黒雲母普通角閃石デイサイト溶結凝灰岩”の露頭から採取した岩石を使用して,K-Ar法により年代測定が行われたことが報告されました(地質技術 第2号 「高田流紋岩類灰ケ峰層のK-Ar年代,2012.7」:資料はヌシさん提供)。
年代測定に使用された鉱物は,角閃石や黒雲母ですが,岩石に目を近づけて見ますと,拍子木状の真っ黒い角閃石と,薄く剥がれる感じでピカピカ光る黒雲母を見つけることができました。
前記資料によりますと,角閃石のK-Ar年代は,94Ma±2.1ということです(1Maは百万年前を意味します)。広島花崗岩類の放射性年代値が概ね90-80Maに集中していることから,それより旧い上記の値は正しく測定された値と考えられるそうです。
今回のツアーで,ヌシさんが特に感動されていた露頭でした。
(8) 伊能忠敬測量絵図館
伊能忠敬(1745~1818)は,55歳にして日本の地図を作るべく測量を始めた人ですが,文化3年(1806),大崎下島の御手洗(みたらい)を測量しています。伊能忠敬が測量している風景を描いた絵図は,日本全国でもここに展示してある2枚しかないようで,とても貴重な史料のようです。
(9) 御手洗の重要伝統的建造物群保存地区
御手洗は,風待ち・潮待ちの港町で,江戸時代の中継貿易港として栄えた町です。江戸時代の船宿や江戸~明治時代の旧い家並みがたくさん残っています。御手洗には,シーボルト(1826),吉田松陰(1853),三条実美(1864)なども立ち寄っているそうです。
(10) 大東寺のクスノキ
境内にクスノキの大木があると,巨木研究家の堀越先生(95歳)に連れて行ってもらいました。ガイドさんが,『目通り幹囲がいくら位あると思われますか?』とみなさんに聞かれたら,堀越先生が『6m』と答えられ,ガイドさんがビックリ。『ひょっとしてプロですか?』 ピッタシだったようです。ちなみに根回りは13mあるそうです。ガイドさんによりますと,根はものすごく長く延びており,根の成長に伴って境内周囲の塀がひっくり返らないように,塀を浮かせて造ってあるそうです。
(11) おちょろ舟の工房
かやネズミさんが2回紹介されていますが(ブログ/2013-10-10,ブログ/2013-11-02),宮本国也さんの工房に伺いました。かやネズミさんの記事によりますと,宮本さんは84歳だそうですが,とてもお元気に舟を製作中でした。お話を聞いても,製作中の姿を拝見しても,一挙手一投足に味のある方でした。大滝秀治さんの色紙など多数の色紙が積み上げてあり,多くの方が訪れておられます。
(12) 御手洗港の江戸時代の建造物
御手洗港には,江戸時代の高灯籠,石の太鼓橋,防波堤などがきれいに保存されています。高灯籠には天保三年と刻まれていました(1832)。防波堤はいろいろな花崗岩の巨石を積み木のようにきれいに積んで造られています。
防波堤から南方を見渡すと,来島海峡の潮流を示す信号や,しまなみ海道の来島大橋が見えました。御手洗のすぐ対岸は愛媛県今治市の岡村島です。
(13) ホルトの木
大崎下島大長の宇津神社の境内に巨大な『ホルトの木』があります。神社の御神木とされており,樹齢1200年以上と推定され,広島県内最大の巨樹と書いてありました。巨木研究家の堀越先生より,樹幹はほとんど空洞となっており,樹皮付近だけで生き延びていると説明がありました。ホルトという意味は,ポルトガルがなまったものなどの説があるようですが,よく分からないそうです。
近くにはイチョウの雌雄の大木もあり,銀杏(ぎんなん)が沢山落ちていました。
(14) 大長の木造家屋
かやネズミさんから,大長には三階建ての木造家屋があると説明がありました。港町の狭い平地を有効利用するためと,大長ミカンで賑わったかつての栄華の名残でしょうか。
今回のエコバスツアーの記事を書き始めましたら,主なるところだけでも14箇所もあり,よく一日で回ったものだと,感動してしまいました。計画・下見をしていただいた,ヌシさん,かやネズミさんに感謝です。また,いい所がありましたら連れて行ってください(^_^)。