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ブログ/2013-07-16

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津和野町&吉賀町(1)

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写真-1 坑内は13℃と涼しく風が吹いています

ミーアキャットです。
 7月13日に石見銀山地質研究会の笹ケ谷鉱山および堀家の見学会に参加しました。資料を要約するとつぎのようです。

1.笹ケ谷鉱山
 笹ケ谷鉱山は島根県鹿足(かのあし)郡津和野町にあります。中生代ジュラ紀頃の鹿足層群と呼ばれる付加体中の石灰岩に伴うスカルン鉱床です。石灰岩の規模は,延長600m以上,厚さ30~60mです。鉱石は銅鉱を主体とするものと,砒素鉱を主体とするものがあります。
蒙古2度目の襲来(1281,弘安の役)頃より採掘が始まったようですが,関ヶ原の戦いの直後の1600年に,石見銀山検分役の大久保長安から堀家に鉱業許可証が与えられました。江戸時代の銅の産出量は多いときには年間40.3tで,全国9番目の規模です。銅精錬の過程で亜砒酸も生産され,『石見銀山鼠捕り』の名前で売り出されました。
 明治20年代前半には近代的設備の導入により生産高が36t/月となり,従業員が1500人と最盛期を迎えています。しかし,第一次世界大戦後の銅価格の暴落後は,亜砒酸製造に切り替え,綿花の殺虫剤としてアメリカに輸出しました。昭和21年には堀家が撤退し,日本鉱業の経営となりますが,その後鉱業権が転々とし,昭和46年に鉱業権廃止となり,700年余の歴史に幕が下ろされました(現在は津和野町で管理していると聞きました)。
 昭和の初め頃より砒素による鉱害が甚大化しました。昭和49年には公害地域に指定され,昭和50年にかけて人的補償が行われました。また,昭和48年以降,10年以上にわたって,鉱害対策工事(汚染土の除去,客土など)が行われました。
写真-2 坑口.jpg
写真-2 坑口

写真-3 坑内からの湧水.jpg
写真-3 坑内からの湧水が300リットル/分くらい
    (降雨によって変化するそうです)

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写真-4 坑道は頭が何度もぶつかるほど低い

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写真-5 水が吹き出している所もあります

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写真-6 わずかに,広い場所があります

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写真-7 鍾乳石が生じています

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写真-8 方解石・黄鉄鉱・黄銅鉱など

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写真-9 黄銅鉱(サンプル近接写真)

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写真-10 ヘデンベルグ輝石の大きな針状結晶

写真-11 ヘデンバージャイト(サンプル近接写真).jpg
写真-11 ヘデンベルグ輝石(サンプル近接写真)

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写真-12 孔雀石

坑内の見学時には,700~800m入ったところで,落盤していましたので,引き返しました。

2.堀家・堀庭園(国指定名勝)
 『天領の里,春秋峡』と呼ばれ,津和野八景のひとつです。堀家は代々銅山年寄役を世襲し,天領差配家として300年の歴史を持ちます。
 当主は代々堀藤十郎を名乗り,江戸中期から幕末にかけての堀家の富は,ほとんど無尽蔵だったといいます。ペリー来航の頃は,幕府に金5千両と精銅6tを献納しています。明治初年から当主を務めた15代堀藤十郎は京都から九州に至る35箇所の鉱山を所有し鉱山王と呼ばれました。明治25年には日本に3台しかなかったレントゲン設備を備えた病院を建設しました。鉱山から引水して電気を起こし,中国地方で最も早く地元に電気をもたらしたと言われています。
 明治時代の首相は必ず堀家に就任の挨拶に来たということです。
写真-15 堀家の屋敷全景(パフレットより).jpg
写真-13 堀家の屋敷全景(パンフレットより)

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写真-14 母屋

写真-14 長い石積みとなまこ壁.jpg
写真-15 長~い石積みとなまこ壁

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写真-16 伊藤博文の書

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写真-17 伊藤博文の書

写真-18 客間.jpg
写真-18 客間

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写真-19 天領時代の高札

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写真-20 堀家の墓所

つづく



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