自然に親しみ、観て触れて学びながら、自然を守ろう

郷土の自然科学者

広島の地質学会育ての親~谷山四方一(たにやまよもいち)さんの功績を探る

東広島市自然研究会 顧問  沖村 雄二


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透明水晶(簇生)
W480×H140×D320mm

この水晶の簇生は、故谷山四方一氏が東広島市豊栄町安宿で採集したものである。当地は県下随一の産地として知られてきたが、現在は採鉱されていない。私達の身近な場所、依って立つ大地に、なぜこのような美麗な水晶があるのか!?という驚きを感じさせる。このたび広島大学総合博物館に寄託された、地元の水晶を中心とした氏のコレクションから、東広島市の大地の不思議を実感してほしいものである。      写真  船越 雄治


1.広島地方の地質学会史

昭和5年(1930)、広島地域の教師層を中心に発足し、昭和初期のわが国の地質学界・日本の地学教育に大きな貢献をした、「広島地学同好会」のことをご存知の方はほとんどおられないのではないだろうか。

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      谷山四方一さん 1883~1970 東広島市豊栄町安宿出身

加えて、この会の活動はもちろん、第二次世界大戦末期(昭和18年)、戦争のためにその活動を止めざるをえなかったことが、日本地質学会史(日本の地質学100年;日本地質学会編、1993)に一言も触れられていないのが不思議でならない(大戦末期、日本地質学会の書籍の大半が広島大学に疎開された歴史もある)。

「広島地学同好会」は、地質学の勉強・研究が博物学の一分野として扱われていた頃、広島高等師範学校(現広島大学教育学部)に事務局を置いて発会した地方の地質学会である -谷山四方一さんが編集・発行責任者であった。

会則は趣意書として会誌に載せられ、同好の士であれば入・退会は自由で、分野は地質学・地形学・鉱床学・天文学・岩石学・鉱物学・結晶学・地史学・化石学(古生物学)・その他旅行登山・キャンプ・海洋・気象などの広範囲にわたっている。会報の発行のほかに講習会や講演会、学校の標本の整備・整理も行っている。昭和13年には721人の会員を擁しており、当時としては驚異的な数字であったに違いない。

東京地学協会(1979)、東京地質学会(1983―後に日本地質学会)につぐ地質学関連の学会であることは、北海道大学をはじめ国内はもちろん、樺太、朝鮮、満州、中国、台湾にも会員がおられたことをしても明らかである。

そしてそれを証明するかのように、当時の日本地質学界の重鎮による投稿が続き(次項)、日本の地質学界が注目した地方の地学会であったことは疑いない。

しかし「広島地学同好会誌」(季刊)は、戦況の逼迫を反映して、第14巻1号(ザラ紙だが活版印刷)を発刊しただけで廃刊の止むなきにいたっている。

* 昭和初期の日本地質学界のリーダーによる「広島地学同好会誌」への寄稿:抄録-

◎江口元起(東北大学)(1919):珊瑚類の地質学的意義及び長門中生代単位珊瑚解説(其1)(第3巻4号)
◎同(其2)(第4巻1号)
◎同(M.E.生)(1920):造礁珊瑚の話(第5巻1号)
◎大村一蔵(日本石油技師長)(1919):石油に就いて(其1)(第4巻2号)
◎同 (其2)(第4巻3号)
◎鈴木 醇(S.I.生)(東京大学)(1920):褶曲層の構造観察に当たって注意すべき或点の一つに就いて(第5巻2号)
◎高橋英太郎ほか(山口高等学校(1919):厚狭山野井津布田植物化石産地を巡りて(其1)(第4巻3号)
◎同 (其2)(第4巻4号)
◎矢部久克(1953年に地質学者では唯一の文化勲章受章、勲一等瑞宝章)(東北大学)(1920):日本の地質時代に於ける氷河存否の問題(第4巻4号)
◎同 (其2)(第5巻1号)
◎木下亀城(九州大学)(1920):中国の鉱業(第5巻2号)
◎同 (1922):山口県玖珂町鞍掛山の紅柱石と菫青石(其の1)(第6巻3号)
◎同 (其2)(第6巻4号)
◎田中館秀三(東北大学(1921):新島武富島の噴火(第6巻1号)
◎加藤武夫(東京大学)(1921):鉱物の産出状態を研究する事の学術的応用的価値に就いて(其1)(第6巻2号)
◎同 (1921)(其2)(第6巻3号)


戦後の混乱期を脱した昭和25年、なんとか学会と学会誌の復会・復刊を願った谷山さんは、広島文理科大学理学部地質学鉱物学教室の今村外冶教授の協力によって、「広島地学会」を立ち上げ、創刊号(ザラ紙でガリ版刷り)に回顧録を寄せている。

もし、谷山四方一さんがおられなかったら「広島地学会」は生まれなかったかもしれないし、広島文理科大学による地方の地学教育界への貢献が評価される状況は生まれなかったであろう。


2.谷山四方一・谷山梅渓・谷山赤峰さん

今村外冶教授を会長として発足した広島地学会の会報、第15号(昭和46年)には今村教綬によって谷山さんの紹介記事がまとめられているが、広島の地学界における谷山さんの功績の大きさを称えてやまない内容であり、文末に再録する(附録1)。

第二次世界大戦の前、広島高等師範学校、仲佐貞次郎教授を会長として、原爆で死去された和田重之助教授らとともにこの「広島地学同好会」を立ち上げた谷山さんは、広島師範学校を卒業後、大正4年(1915)に広島高等師範学校地質学鉱物学教室の助手を務めながら教育科を卒業(大正6年)し、明治専門学校(後の九州工業大学)助教授・教授をつとめて広島に帰り、可部高等女学校、上下高等女学校、崇徳中学校、広島工業、広島市立工業専門学校に勤務しておられたようである。

教務の傍らの同好会誌編集は大変だっただろうと想像する。
そのような忙しさの中、氏は谷山四方一、谷山梅渓あるいは谷山赤峰の名前で、「広島地学同好会誌」に実に43にのぼる論文・寄稿文を載せておられるが、鉱物学分野の造詣が特に深かったようである。おそらく氏の寄稿としては最後であろうが、広島地学会報第8号に「地学の狙い」と題して、地学教育の重要性を強調されている(文末に附録2として、寄稿全文を再録した―現在の地学教育が軽視されている状況を考えて、是非とも一読をお奨めする)。

「広島地学同好会誌」は、変形B5版で第3号までは右開きの縦書きであったが、第4号からは左開きの横書き、昭和15年に「広島地学会」と改称して、会報は「地学」(第11巻第3号から)と改めている。その理由として、会告文には“国策に順応して筆国の大理想実現、大東亜共栄圏の確立、高度国防国家の建設のために...”と言う文言が読める。

もう少し、谷山さんの業績を探って紹介しよう。「広島地学同好会誌」のなかで、谷山さんが最も力を入れられている寄稿の題は、「応用鉱物学一般」で29回にわたっており、ほとんど全ての鉱物の特徴はもちろん、内外の産地・産状についても解説されている。例えば、筆者の専門(炭酸塩岩の地質学)の一部である鳥糞石(guano)については、その成因はもちろん、沖縄県の大東島をはじめ世界中の産地について記述されている(第8巻1号、1937/昭和12年)。

社会的には、1953年以後、中国地方鉱山会技術顧問、広島資源科学博物館設立準備委員会委員として活躍されている。県下の旧制中学校、高等女学校などを点々とされて、地学教育普及に努められてきたことも記録にとどめておきたい。

また、戦後、広島復興大博覧会(1958)第3会場として設立された広島城・広島郷土館には、広島県下一の水晶の標本(広島大学総合博物館ニュース、HUMHUM.No.5,2012)をはじめ、氏の鉱物・岩石標本が多数陳列されていた(展示されていた標本の一部が、ご遺族によって保管されていたことがわかり、現在、広島大学総合博物館に寄託されている(表-1)。

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乳白色水晶(簇生)
W400×H210×D360mm

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半透明水晶(簇生)
W500×H130×D370mm

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表紙の水晶を横から

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夫婦水晶(日本式双晶)

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透明水晶(両錐)

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透明水晶

透明水晶(柱状錐状簇生).jpg
透明水晶(柱状錐状簇生)

3.谷山四方一さんの故郷(東広島市豊栄町安宿)から産出した水晶について

谷山さんによる安宿産水晶に関する記述は、「広島地学同好会誌」第6巻第1号(1935)「広島県産鉱物に就いて(其1)」と、第10巻第1号(1939)「広島県産水晶に就いて(再び)」に上載されている。

また、広島高等師範学校助教授 和田重之氏が同誌第12巻2号に、「安宿産水晶に就いて」と題して寄稿している。しかしいずれもペグマタイト岩脈としての産状、および群晶・両頭水晶・日本式双晶などの肉眼的特徴の記述に終わり、鉱物学的な記載にはいたっていない。

読者が「広島地学同好会誌」を手にする機会はまず無いと考え、結晶のスケッチもある谷山さんの2回目の記述を再録しておこう(附録3)。

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附録3.jpg

謝辞 この寄稿をまとめるに当たり、谷山四方一さんの長女で、谷山さんのコレクションを大事に保管しておられた柳井ルリ子さん(豊栄町別府在住)に、心からお礼を申し上げます。

なお、東広島市自然研究会会長、土岡健太さんには、谷山コレクションの行方を探すにあたり、大変なご苦労をおかけしました。厚くお礼を申し上げます。

沖村 雄二(自然研究会顧問、広島大学総合博物館客員研究員)
東広島市自然研究会/会報「東広島の自然」(2012.3)No.43
特別寄稿



*附録1.今村外冶(1971):故谷山四方一先生と
広島地学会.広島地学会会報,第15号,3-8

*附録2.谷山赤峰 (1955):地学研究の狙い.
広島地学会会報,第8号,3-5

*附録3.谷山四方一(1939):広島県産水晶に就いて
広島地学同好会誌,第10巻1号27-28


*附録1

故谷山四方一先生と広島地学会
           広島地学会会報, 第15号、3‐8
           鈴ヶ峰女子短大   今村 外冶

本会名誉会員谷山四方一先生は去る45年1月4日、広島市江波二本松のお住いで、87才の生涯を閉じられた。わが広島地学会及びその前身広島地学同好会の創設者であり、遇去40年の永きにわたり、わが学会の育成・発展に日夜心を砕かれたそのご熱意とご協力には全く敬服の外はない。

広島地学同好会の創設は昭和5年2月のようである。当時広島高師は西日本の教育の本山として主きをなしていた。同校地質鉱物学教室に縁故の深かった先生は、仲佐貞次郎教授・和田重之助教授に協力され、同教室を中心に同好会は発足した。

四角ばった会則をつくったり、入会資格をやかましく云うなどせず、同好の士でさえあれば誰でも入会できたのである。毎月1回地質鉱物学教室で例会が開かれ、茶菓子を食べながら座談し、発表し、図書・標本の回覧・配分も行われた。

本印刷の広島地学同好会報の創刊号は昭和5年秋に刊行、翌年から年4回発行が重ねられたが、先生は昭和11年3月までその発行と編集責任者となり、その後地理学の西亀正夫先生が代わられた。昭和15年11月(第11巻第3号)から会名は「広島地学会」に改められ、会報も「地学」と改題されることとなった。

日華事変の拡大・太平洋戦争の勃発(16年12月)と国内情勢は緊追の一途をたどったが、その間も会員の並々ならぬ努力と熱意により、例会は1回も欠かさず続けられた。然し会誌は第12巻(16年)は年2回、第13は1回、第14巻1号(18年1月)を最後に休刊の止むなきに至った。

17年10月会長を続けられた仲佐教授は定年退官され、郷里千葉県に帰郷、新たに春本篤夫教授が迎えられた。翌18年10月広島文理大に地質学鉱物学教室が新設され、今村が主任教授となった。翌19年5月春本教授は京都帝大教授に転じ、後任には梅垣嘉治教授が迎えられた。

この変革期に会の活動は一時休止していたようだが、新たに梅垣教授が会長に推され、戦争末期の混乱期にもかかわらず、なお例会が1度開かれ、私も出席したことを覚えている。

会員には高師博物や地理学専攻出身で全国各地の大学や中等学校で活躍している卒業生が多く、したがって当時の日本全領土、すなわち樺太・台湾・朝鮮はもとより、満州・関東州から支那本土在住会員も含まれ、朝鮮国籍の会員もあった。

会員数は昭和6年64名であったが、年々増加し同10年202名、同12年505名、同13年には実に727名(広島県在往者122名、県外在住者605名)の多きに達し、名実ともに全国的な地学会に発展していた。県外在住会員には尾崎博・大石三郎・鹿間時夫・高橋莱太郎・藤本治義・岡本要八郎・片山信夫・木下亀城・桜井欽一・田申館秀三・益富寿之助等知名の学者も加入されていたのである。

他方昭和8年に山口県柳井に支部が発足、毎学期1回例会が続けられていた。

上述のように大世帯に発展していた広島地学会を運営されていた幹事の方々のご苦労は如何ばかりであっただろうか、まことに察するに余りある。

昭和18年まで14ヶ年間にわたって刊行された「広島地学同好会報」ならびに「地学」を総覧すると、小川琢治・大村一蔵・加藤武夫・鈴木 醇・矢部長克先生など、当時わが国学界を指導されていた大先生の貴重な論説が拝見され、如何にわが広島地学会を支援されていたかがしのばれる。

谷山先生はほとんど毎号にわたって論説や記事に投稿されている。とくに「応用鉱物学一般は第3巻1号から第12巻1号まで実に10ヶ年の長期間29回にわたり連続投稿されていることは特筆に値する。如何に学会誌の発展に努力していただいたかが忍ばれる。

昭和20年8月6の原爆投下により広島文理大・広島高師は焼失、幹事西亀正夫先生は爆死、広島地学同好会生みの親・育ての母であった和田先生も翌21年5月遂に原爆症で悲しくも他界された。

21年10月地質学鉱物学教室は文理大旧焼舎に復帰、苦難を続けたが23年頃から漸く落着きを見せ、また広島高師は市内元被服廠跡に復帰し、それぞれ学生の指導と研究が開始される運びとなった。

同年12月谷山先生の強い要靖があり、翌24年文理大地質学鉱物教室を中心に、広鳥地学会が再興されることとなった。6月第1回広島地学会総会並びに講演大会が開催され、木野崎吉郎教授が会長、谷山先生は幹事に推され、また「広島地学会の歴史について」講演された。

終戦前後5ヶ年間の空白時代に漸く終止符が打たれ、広島地学会が新たな陣容と構想の下で再発足したが、谷山先生のお喜びはまたひとしおのようであった。

なお、広島地学会々報第1号は翌25年6月に刊行されているが、すでに満20年を経過したのである。

先生はまた学術研究と社会教育の振興に博物館の重要性を強調された。広島市がようやく復興途上にあった昭和26年、卒先科学博物館設置推進運動を進めようと提案された。その結果、広島地学会内に委員会が結成され協議を重ねた。

これがきっかけとなり、28年2月には広大堀川芳雄教授を委員長に、広島資源科学博物館設立準備委員会が結成され、広島地学会から、木野崎・下村・今村・仁科(広島気象台長)・谷山・長岡(広島原爆記念館長)が委員として参加、強力に活動を続けた。その設立計画については日本博物館協会会報第21号にも詳報されたが、いまだ実現されていないことは遺憾至極である。

33年国宝広島城天守閣が復元され、広島復興大博覧会第3会場郷土史館として開館が予定されていた。委員会は自然史を含む内容とするよう強く当局に要望した結果、郷土館の構想に改められ、2階に自然史的資料が展示され、博覧会終了後、「広島城郷土館」として公開され現在に至っている。

地学部門には谷山先生所蔵の県内産鉱物標本約30余点が展示され、とくに豊栄町安宿や可部町河戸産の見事な水晶の群晶・瀬戸町産輝水鉛鉱・尾道市原田町産褐簾石など貴重な標本が入館者の興味をひいている。

以下先生のご略歴と寄稿目録を紹介し、多年にわたる地学振興へのご貢献を感謝するとともに、今後会員一同心を新たにして、わが広島地学会の発展に努力を誓い、心から先生のご冥福をお祈り申しあげます。

略 歴
明治16年(1883) 7月22日 広島県賀茂郡豊栄町安宿に生る

明治39年(1906) 広島師範学校卒

大正4年(1915)に至るまでの間 小学校教員として広島県内に奉職、広島高等師範学校地質鉱物学教室助手、師範学校・中学校・高等女学校鉱物学科教員検定試験合格

大正6年(1917) 広島高等師範学校教育科卒
明治専門学校(九州工業大学の前身)助教授、加藤武夫・松本唯一両教授の下で、鉱物・鉱物識別・吹管分析・地質及同実験担当

大正14年(1925) 同校教授

大正15年(1926) 山梨師範学校教諭

昭和元年~同26年(1951) 広島県可部高女・上下高女・崇徳中学・広島工業・市工業専門学校を歴任

昭和5年(1930) 広島高等師範学校仲佐貞次郎教授・和田重之助教授とともに広島地学同好会設立、会報創刊

昭和24年(1949) 広島地学会再興

昭和26年(1951) 科学博物館設置推進運動を提唱、広島地学会内に委員会結成、委員となる

昭和28年(1953) 中国地方鉱山会技術顧門、広島資源科学博物館設立準備委員会委員

昭和33年(1958) 国宝広島城天守閣復元、広島復興大博覧会第三会場郷土館として開場。谷山氏所蔵の鉱物標本多数展示、6月以降広島郷土館として公開現在に至る

昭和35年(1960) 広島地学会名誉会員

昭和38年(1963) 原爆資料保存会名誉会員

昭和45年(1970)1月4日 没

終生岩石・鉱物・化石を趣味とし、地学教育に専念す
叙勲 正六位

''寄稿目録
''広島地学同好会報
1自然科学と教育 I巻1号
2石灰の成因 Ⅱ-2
3鉱物の鑑定(1) Ⅱ-2
3松岩に就いて13 Ⅱ-2
4鉱業法上の鉱物 Ⅱ-3
5信州を巡りて(1)・(2) Ⅱ-4,Ⅲ-1
6長野県下の地学研究概況⑲ Ⅲ-1
7応用鉱物学一般(1)(2)(3)(4) Ⅲ-1・2・3・4,Ⅳ-1
8成羽旅行(1)・(2) Ⅲ-3・4
9加賀津の滝に就いて Ⅲ-3
10新景勝天徳狭に就いて○31 Ⅲ-3
11年頭の辞 Ⅲ-4
12応用鉱物学一般(5)(6)(7)(8) Ⅳ-1・2・3・4
13可部付近の地質鉱物案内○35 Ⅳ-3
14故保科百助氏と信州地学(1)(2) Ⅳ-3,Ⅴ-1
15応用鉱物学一般(9)(10)(11)(12) Ⅴ-1・2・3・4.
16布哇キラウェア写真に就いて○42 Ⅴ-3
17佐伯郡万古渓○45 Ⅴ-4
18広島県産鉱物(1)(2)(3)(4) Ⅵ-1・2・3、Ⅶ-3
19応用鉱物学一般(13)(14)(15)(16) Ⅵ-1・2・3・4
20隠れたる絶景周防峡 Ⅵ-3
21ハールマンの地殻波動説 Ⅵ-4
22応用鉱物学一般(17)(18) Ⅶ-1・2
23東城附近化石採集記 Ⅶ-4,
24応用鉱物学一般(19)(20) Ⅷ-1・3
25全国博物大会に臨みて Ⅷ-2
26応用鉱物学一般(21)(22)(23)(24) Ⅸ-1・2・3・4
27広島付近の哇石 Ⅸ-2
28広島付近の鉱物の一二に就いて○85 Ⅸ-3
29ロシヤに於ける科学者の家 Ⅸ-4
30応用鉱物学一般(25)(26) Ⅹ-1・4
31広島県産水晶に就いて(再び) Ⅹ-1
32第二回地学臨地講習会概況(1)(2) Ⅹ-3・4
33鉱物岩石化石新紹介欄 Ⅺ-1・2
34旱害対策に就いて Ⅺ-1
35本会主催夏季四国実地講習会に就いて○99 Ⅺ-1
36五良津地方採集記 100 Ⅺ-1
37筑前の檣柱石と米国化石林 Ⅺ-2
38応用鉱物学一般(27)(28) Ⅺ-3・4
39方解石に就いて 105 Ⅺ-3
40応用鉱物学一般(29) Ⅻ-1
41青島岩と関門の地質 116 ⅩⅢ-1
42鉱物よ何処へ行く(1) ⅩⅣ-1
43ビルマの鉱産 ⅩⅣ-1
注 例として⑬は第13回例会講演を意殊する。
*また36の100、39の105、41の116の縮小数字も同意である。(編集委員)
広島地学会報 昭和25年6月創刊
1広島地学会の再発足に就いて No.1
2高森附近の鉄鉱 第3回総会講演
3地学研究の狙い
著 者
・谷山四方一
鉱物鑑識の実際と鉱山探検 昭和14年 東京厚生閣
・谷山赤峰
地学(地球科学)放談 日本鉱物趣味の会創立31周年記念 「地学研究」特集号1963



*附録2

谷山赤峰:地学研究の狙い.広島地学会,
第8号,3-5 (1955)

私が学生時代に、ある先生から、自分の専攻の学科を深く研究すればする程、人間の全人格が陶冶されるものだ、という事を教わった。

それ以来それを信じて来たが、成る程と思い当たる事が多々あった。文士が何か小説を書いた時に、其作品が社会の多くの人に、膾灸され愛読されるのも、作者が主人公の様な人格に到達して居らなければ其んな立派な作品は書けないと思う。

世の中には社会的地位も高く、高潔な士だと思った人が、破廉恥罪を犯して牢獄に囚われの身となって居る人があるが、此等の人は道徳的の洗練が足りないからであろう。

戦前は、修身科が道徳教育をするものだと考え、全人的教育を軽視していたから、空っぽの人間、即ち形式的教育となったのだろう。何も修身科だけで一時間(毎週)二時間で教えられるものではない。

なるほど修身科は道徳教育の骨子ではあるが、余り責任を負わせつけていて、他の教科は我不関に終わっては立派な人間教育ができる筈がない。

新設の社会科も同様で人間教育完成の全責任を負わせられたら、前の修身教育と同様の結果となりはすまいか。

最近広島にあった某中学生の公園の猿毒殺事件の如きは、実に生きた教育材料で、児童生徒をして多方面から批判論議させて善導すべきだと思う。敢えて対岸の火事視して自分の教科丈を固守すべきではない。常に生徒の全人格に触れて注意を与える事が教師としての責務だ。

終戦後日本人は所謂島国根性になり、人間として余りに小さくなり過ぎてはいまいか、セクショナリズムと言うが自分の為め、我が党の為、我郷土の為めとか言うて事の善悪に係わらず、我田引水的になり過ぎては居まいか。他人や、他党や、外国人のいう事は四言八句でも悪いものとして寛容せぬ讒謗罵詈至らざるなしで実に聞くに堪えない。

こんな時に少しは大国民的襟度があって欲しい。学校教育も各専門の学科を通して生徒の人格に触れて善導してやったら完璧だ。

数学は数理的な頭脳をつくり、音楽や図画は美的情操を、体育は均斎な体の発達に、生物は自然を知り人間の利用厚生に資する等各教科には各特色がある。此等個々の知識を会得せしむるだけでなく、高等学校を通じて生徒の全人格の陶冶に役立たしめなくてはならぬ。各学科は各性質が違うが互いに協力して教育の目的を貫徹して貰いたい。

終戦後間もない時のことであった。呉駅の待合室で汽車を待っていた。其時、隣の腰掛に或労働者風の男がしきりに落花生の皮をむいで食べながら其皮を撒き散らしていた。丁度其時に駅員が掃除をしていたが、其駅員が言葉丁寧に、「どうぞ其皮を塵箱に入れてください」と言った。其労働者風の男曰く、「お前は月給をもらってやっているのだろう、掃け々々」と豪然としていった。駅員は何も言わなかった。

社会にはこんな個人主義的な我利我利盲者が多い様だ。然し此れでは社会はよくならない。秩序は保てない。お互いに助け合い、お互いが清潔に気をつけてはじめて秩序が保たれ社会が安泰になるのだ。

学校教育でも生徒の人格に注意を払って、学科の必要不必要の区別をせず、やってもやらなくてもよいと言う学科は始めからはぶく可きではない。

地学科の如きは、従来軽視されがちで、文部省あたりで廃止論さへ持ち出された事さえある。其れにも不係我々人間は地学の恩恵を最も多く受けているのだ。

地学の対象とする大地がなかったら我々は住む家さえない。まして日常の食物たる穀物や野菜は生産することは出来まい。我々は一歩戸外に出ると直ちに大地を踏む。日常必要な器物は此の大地に依って生産された物ばかりだ。

其れに一朝、台風や地震に見舞われたら其れこそ大変、幾万の人名は一瞬にして葬り去られてしまうではないか。こんな事が幾度繰返されても喉元すぐればあっさり忘れて一向に平気だ、なんと呑気ではないか。これら不幸な災害を見ても地学の必要は当然の当然だ。

地学の研究は地球の自然を了得することであると同時に、人間の形成に必要欠く可からざる学科である。即ち人間として豪胆な胆力も、寛厚偉大な度量も、此の地学によって修得せられる。

試みに付近の高い山に登って下界を瞥見せよ、我々の住む家や、橋梁や、汽車や、電車が、幾万の資材を投じ、幾多の日時を費やして造られたものであるのに、これらが如何に小さく憐れに見えるだろう、之に比べて山体や、海洋が如何に広漠として偉大なことよ!夏季に大豪雨の襲来があって河川の氾濫したとする。此等濁水の大洪水は悉く海洋に流入したとしても、海は蝦蟇が蝿を舐めたほどにも見えない。茫洋として何等の変化を認められないではないか。

偉大なる大自然よ。地学はこの偉大な大自然を対象として研究しているのである。我々は此大自然の現象を現代の青少年に知徳探求せしめて此大自然を知って貰いたい。

そしてゆるぎなき精神や、豪気の胆力を養って貰いたい。現代の人々は個人と言う根城に立篭もって、小心翼々たる人が多いが、これ等の人々に此気分を味わって貰いたい。

以上地学が国民生活に必要欠く可からざる学問である事は、縷々返信するの必要はないが、少なくとも此種学科の進展には、教師自らが地学知識に豊富である事と、而して各自の周囲にある材料を教材として取入れ、生徒をして自然に親しめる事がもっとも肝要である。
                      

(元広島高専教授)

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