自然に親しみ、観て触れて学びながら、自然を守ろう

龍王山の自然と遺跡

東広島市 龍王山の自然と遺跡

―調査総括と啓蒙・教育資料の作成―

はじめに

 龍(竜)王山と呼ばれる山は、かつては村の単位でも必ずと言っていいほどあったようです。合併した東広島市にも、西条町・黒瀬町・河内町など、国土地理院の5万分の1地形図に龍(竜)王山が載っております。理由は、龍神信仰によると龍は災いを避けて運気をつかさどる神様です。

 従って龍王が鎮座する山は龍王山と呼ばれ、雨乞いの山であるとともに、水源の山として、人々の生活とは切っても切れない関係があったのでしょう。

 仏教との関連も強いようですが、やはり水とのかかわりが強く、雨が少なくて晴れの県といわれる岡山県では詳しい研究・調査が行われていて、山頂での雨乞いの儀礼には、各家から薪を持って山に登り、千把焚(せんばだ)きをして龍王の祠にある水甕(みずがめ)をきれいにして降雨を祈ったようです。

 雨乞いの風習がなくなった今でも、地下水量の少ない西条の町にとっては、日本有数のお酒の生産地として西条龍王山が大事な山であることは疑いありません。“憩いの森公園”は、平成17年度には1万人近い市民に利用されています。

 (財)東光会の好意により財産区の一部が無償提供され、今では市民の憩いの場となっている“憩いの森公園”(管理は東広島市農林水産部・憩いの森公園管理事務所・賀茂地方森林組合)を訪れて、水の大切なことに思いをはせることはもちろん、龍王山の自然、そしてわたしたちの祖先を偲ぶ資料(遺跡・古墳)として、学校教育にもこの特集が役立つことを念願しています。

 第1図は、平成20年11月に実施した、広島大学マスターズが主催する「親と子の野っぱら探検隊」の講座で配布した案内図で、憩いの森公園全体の地形を表したものですから、自由散策にもお使いください。

 謝辞 なお、この特集の企画にご支援を頂いた東広島市学園都市づくり交流会議に厚く感謝いたします。


画像をクリックすると拡大します。

図版.jpg

第I部

地形と地質を中心に

沖村 雄二

1. 龍王山にまつわる歴史の要約
(会員の船越雄冶さん提供 ― 平成18年、龍王山の地質・岩石・遺跡の観察会の際に配布―東広島市自然研究会主催)
 1. 縄文時代以前のことについてはよく分かっていません。
 2. 弥生時代(紀元前4・5世紀~後3世紀):農耕が始まった時代で、大陸との交流、人が人を支配する体系も生まれました。青谷1号遺跡:大量の弥生式土器と複合遺跡が特徴
 3. 古墳時代(日本の考古学的区分では3世紀後半~7世紀ごろ):前方後円墳の出現。畿内地方中枢部に、わが国最初の国家が成立(花が迫古墳群:龍王山中腹にあり、7世紀ごろ、13基、横穴式石室、火の釜伝説)
 4. 奈良~平安時代(8世紀~12世紀)青谷1号遺跡:須恵器、円面硯
 5. 鎌倉~室町時代(13世紀~15世紀)青谷に草坊あり、真言宗、西条町の大寺院のルーツ。羅漢古碑1基、板碑2基
 6. 安土~桃山時代(16世紀後半)
豊臣秀吉が旦過寺に宿泊
 7. 江戸時代(17世紀~19世紀前半)
芸藩通志、書出帳、絵図。 山の管理:御建山・御留山・野山・腰林・宮山
テレビ塔の見える山―廃龍泉寺、(建)龍泉寺山、龍王社(雨乞い神社)(留)郡八幡山、(留)行貞山,(留)掛樋山、ギオン山
頂上:戸野山(殿山)
龍王と雨乞い:雨乞いをする山を龍王山と呼び、1村に1龍王山があった(寺家・吉行・助実・御薗宇(2)・馬木・下見など。)
雨乞いの方法:夕方、1戸1人以上、1人1束の薪を背負って登山、徹夜(5夜連続のことも)、藩の命令、県下一斉(大正13年6月15日)
 8. かつては竜王社が、今はテレビ塔が建つピークを龍王山と呼んでいたが、今は標高575mを頂上とする山全体を龍王山と呼ぶ。
 9. 昭和初期:御大典記念の石碑。寺西村森林組
合(昭和3年)
 10. 戦後:(財)東光会(昭和34年設立)。
記念碑「花が迫の森」(昭和53年建立)
龍王山:昭和42年発行国土地理院地形図5万分の1で龍王山575m)という表示が現れる。
 11. 平成11年:市民の森(後の憩いの森)

2. 龍王山の南斜面(地形と地質との関係)
第2図は、龍王山南斜面、半尾川(支流に花が迫川がある)流域の地形図ですが、龍王山の山系は南北に長く、南斜面の流水域も南北に細長く、ひじょうに狭いことが読み取れます。左側の図(昭和44年発行)・右側の地図(昭和53年発行)ともに龍王山の標記(標高575.1m)があります。しかし、かつて龍王山と呼ばれた“雨乞いの山”には、前者では鳥居と2基の高塔の印があり、後者では電波塔2基が描かれているだけです。山頂部一帯の地形は緩傾斜で、集落からも近く、雨乞いの儀礼の場としての条件に恵まれていたことは間違いないでしょう。

 龍王山山系は花崗岩類からできていて、山頂部一帯の中粒斑状花崗岩、南麓部一帯の中~細粒優白質花崗岩類からなり、深部にまで及ぶ風化作用が進みやすいことから、斜面崩壊を起こしやすい地質であることは間違いありません。第3図に引用した地質図でも明らかなように、半尾川中流域には古期崖錐堆積物が谷間を埋めて発達し、次に述べる地形と地質との関係を示唆しています。すなわち、半尾川下流域には西条層が広く分布し、それを構成する堆積物の由来と量を証明しているものと考えることができるのです。

 半尾川が記入されている川の先端部付近の地形は、等高線の幅が広く、斜面がひじょうに緩やかで、この点に注目して調査すると、大小さまざまの岩礫を含む厚い黒色の腐植土からなる緩斜地が発達して、典型的な地すべり地形を示しています。明らかに斜面崩壊によって移動した堆積物で、高所部で薄く、下方では厚い堆積物の末端が急傾斜する地形です。また岩盤ではないために下刻作用が急激にすすんだ谷と、あちこちで浸出する地下水もみとめられます。もしこの大規模斜面崩壊がなければ、垂直に近い節理が発達した花崗岩地帯であるだけに、半尾川の上流域には岩海が発達していたと考えられる地質構成なのです。

 斜面崩壊によってできた砕屑物は、雪解け水や豪雨によって大量に運ばれ、半尾川によってできた谷の出口付近に扇状地が形成されて(表表紙の写真参照)、扇状地の末端部から浸出する地下水を貯留していると考えられます。西条駅の北東、約2kmには黒瀬川の支流(中川の源流域)と沼田川の支流(入野川の源流域)との分水嶺があり、集水域はひじょうに狭域です。また、南1kmに位置する半尾川と黒瀬川の合流(石ケ瀬)地点からしても、酒造地帯は上流域にあり、地下水の貯留層をこの扇状地堆積物に求める以外には考えられないのです。第2図からも酒造地帯の地形が概して平坦であることは疑いないのですが、半尾川の下流部には数mの地盤の高まりを読み取ることができ、扇状地の発達が推測できます。(第4図参照)

3. 憩いの森公園の自然(地質が面白い)
 憩いの森公園を中心にした地域の地図(第1図)と、第2節の「龍王山にまつわる歴史」を参考にしながら、憩いの森公園の自然を探ってみましょう。第1図の出発点を1として、子ども広場の西、番号2の地点から番号順・記号順に説明します。

 地点2. 昭和3年と彫られている天皇陛下御大典の記念石碑が建っています。記念の植樹行事が行われました。龍王山が身近な里山として親しまれるとともに大事な山であったことが伺えます。
地点A. 道路と花が迫川が交わるところに、大きなヤマモモの木があります。大きなうつろが穿(うが)たれた古木には、生命の強さを感じます。この木の下、川のほとりには、龍王山地域に決して分布するはずがないいろいろな岩石の巨礫(れき)が、土手を保護するように置かれています。四国の三波川帯を特徴づける結晶片岩(変成岩)を主体とする岩石は、どこかのお宅の庭か、学校の岩石園にあったものでしょう?整備して本格的な岩石園をつくって欲しいものです(学校の授業にも使えます)。
 
 地点3. 日だまりの庭。入り口に、かつて半尾川にかかっていた橋の親柱があります。何故ここに鎮座することになったのか分かりませんが、かつては麓の西国街道上の橋にあったのですから、何か説明板が欲しいですね。

 地点4. 小山1号古墳。南斜面の日当たりも眺めも素晴らしい場所に、花崗岩礫を集めてつくられたお墓です。こんなに大きな岩石をここまで運んで積み上げる、古墳時代の人々の知恵と技術には驚かされます。

 地点5. シンボル庭園の西側斜面を流れる小川の水が小さな池に流れ込み、運ばれた土砂が沈殿してミニ扇状地を作ることがあります。半尾川がつくった扇状地(地点6)を考える時のモデルになるでしょう。

地点6. シンボル庭園の急坂を登って展望台へ。あるいは回り道をして、かつて“龍王の名水”と呼ばれた所へ。展望台からは、前節で述べた“半尾川の扇状地”が望めます。また、雨乞いをした“かつての龍王山”(テレビ塔が立っている)を望むこともできます。展望台のある平地の奥まった所には、礫岩のような組織をもった花崗岩が積んでありますが、これについては地点7を参照してください。“龍王の名水”がうまい理由の一つに、流紋岩という岩石をとおって出てきた水だからと説明されたことがありますが、龍王山には流紋岩は分布しませんから、理由は?
 
 地点B. 林道五楽線にでて北上するとちょっとした広場に出ますが、舗装された道路のあちこちから水が浸出していますし、広場の土にも湿地を思わせるところがあります。これは、前節で述べた地すべり堆積物が多くの水を含んでいる証拠です。この広場にはいろいろな草本植物が観察できますし、食べられるキノコも観察することができます。

 地点7. 地点Bから引き返して新立1号古墳(林の中の小道入り口に案内板があります)を見学します。考古学的な勉強は、第II部の古瀬先生の説明にお任せして、石棺の材料岩石にこだわった古墳の構築には、これまで案内した見学者の皆さんが驚きと感嘆の声を漏らしておられました。この古墳に使用された岩石は、龍王山のごく一部、半尾川沿いに発達している脈岩です(いろいろな形をした礫=“捕獲岩”をもつ花崗岩;確認はできませんが幅が10mくらいしかない岩脈でしょう)。

 一見、礫岩礫ようのこの特徴的な岩石は、花崗岩マグマが割れ目に沿って貫入するとき、周りの岩石を取り込むことで形成され、花崗岩の包有物と呼ばれる暗色の細粒有色鉱物の多い岩石です(裏表紙内側・図版II-2、表紙内側・図版III-3)。この岩石にこだわって構築された古墳は、材料の岩石を集めるだけでも大変だったでしょう。随分と慕われた農民のリーダーのお墓なのでしょう。

 地点8・地点9は表示していませんが、地点10に降りていく途中、大小の角礫を含む未固結の土砂(“地すべり堆積物”)に刻まれた、深くて細い数本の谷の成因を考えてみてはいかがでしょう。

 地点10. 多目的広場の東側を流れている半尾川の川底には、“捕獲岩”を持つ花崗岩の岩脈が発達しています。石垣に使われた石や河床に敷かれている岩石にも、多くの捕獲岩が観察できます。半尾川にかかる橋のすぐ下流には、水量は少ないのですが2連の滝が観察できます。二筋の滝は、花崗岩マグマが冷えて花崗岩が形成される時、体積の収縮でできた2方向の節理面に支配されている異なったタイプの滝です。一つは垂直な節理面、もう一つは水平な節理面を流れる珍しい滝と言えるでしょう。

 地点11. セミナーハウスの横から半尾川に下り、川床が水平に近い節理面であること(図版III-4)、そしてすぐ下流の小さな崖に垂直に発達する花崗岩の方状節理面に注目しましょう。垂直な節理面が川の中心に向けて傾いていたり、ずれたりしていることにも注目したいものです。川に面した垂直面が、山側の重力に押されて、前面に動いた滑動(クリープ)と呼ばれる現象(図版II-1)で、上位の岩石が崩れることで川の侵食作用が下方だけでなく、川の幅を広げる作用を伴うことを表しています。この現象はなかなか観察できる場所がありませんから、地点10の滝とともに案内板が欲しいところです。

 半尾川の河床からキャンプ場に上がって南下する途中、キャンプ場のあちこちで動物の糞を観察するのも勉強です。キャンプ場を過ぎて最も南にある池の山側に、垂直に立った崖が見えます(表紙内側・図版III-1、2)。この崖は、手前の岩石(今は無い)が緩い角度で南にずれ動いたことを示す証拠が見られる断層崖です。部分的に断層鏡肌やすじ状の擦痕(手で触ると、すじには手のひらが滑らかに動く方向とざらざらする方向があり、滑らかに動く方向に手前の岩石が動いた左横ずれの断層であることが分かる)が観察できます(裏表紙内側・図版II-3)。

 そして池のほとりの花崗岩には、断層面とほぼ平行でせん断破壊されてできた沢山の割れ目が発達し、雨水が地下に浸透しやすい条件ができています。ちなみに、この断層によってできた割れ目の方向は、西条酒造地帯の方を向いています(N20°W)。これだけの規模で、断層現象が観察できるところはきわめて珍しく、市の天然記念物に指定される価値があると言えるでしょう。案内板はぜひとも設置して欲しいと思います。

4. 面白いのは地質だけではありません
 ここまでは、憩いの森公園一帯の自然が、市民の憩いの場であることはもちろん、本当の自然を知るための資料となり、学校教育にも役立つことを願って地質学的な調査をすすめてきたものであり、次は生物学的な面からの特集が求められるのではないでしょうか。

 裏表紙・図版Iの4コマの写真は、動物の糞からその動物の生態を学んだり、冬の2月、オタマジャクシの形のままで冬を越す池の生物などを観察した時の驚きを記録したものです。

この特集を案内書に、龍王山の自然を楽しく学び、将来、素晴らしい自然科学者が生まれるきっかけになることを祈っております。
(沖村雄二・土岡健太が担当・執筆しました)


付記(1):調査余話― 
 憩いの森公園には、いくつか池があり、捕獲岩を持つ大きな岩が使われている池(管理棟の裏)に、オオサンショウウオの卵があるとの知らせが、公園を管理されている農林水産課にはいり、急遽、広島市安佐動物公園の桑原一司先生に指導をお願いしたことがある。真冬の2月、霜柱の立った朝であったが、水中に径が30cm近くあるように見えた半透明で、大きな葡萄の房のように見える卵塊を見られてすぐ、桑原先生はヤマアカガエルですねと、水中生物を掬い取って観察するための網を使って、その正体を説明されました。そして網の中に入った冬の池の生物についてもいろいろと指導してくださいました。

 真冬の池にひっそりと生きている生物の多様なこと、そして自然と生命の不思議に直接触れることができた感動は、今でも時々思い出します。裏表紙の写真はその際に撮ったものですが(ヤマアカガエルの卵塊はお見せできるような写真になりませんでした)、メダカの学校が冬の池でも開かれているらしいこと、ウシガエルの大きなオタマジャクシが、カエルになり損ねて?そのままの形で冬越しをしていることなど、驚きを禁じ得ませんでした。

 桑原先生は、さすがに動物園の管理・指導者。動物たちの糞を調べて健康状態を判断されるのでしょうか(痕跡学)、公園内のキャンプ場のあちこちでキツネやイタチの糞をばらして、彼氏?彼女?たちの食べ物についても教えてくださいました。キツネが柿を食べ、イタチだったと思うのですがハチも食べていました。そして、キツネがノネズミを捕食し、人家の近くでは人の食べ残しをあさっていること、イタチは縄張りを示すために、かなり目立つ場所に糞をすること(散策道の白い砂袋の上など)など、自然の不思議に満ち溢れた憩いの森公園が、本当の自然を知る絶好の場所であることを改めて認識し、このたびの特集を企画することになった次第です。

 桑原先生には、平成20年度の本会総会において、お忙しいなか、「自然大好き」と題して素晴らしいご講演をいただきましたので、本誌の総会記事のなかで、会員米門公子さんがまとめてくださった報告(桑原先生校閲)に目を通してくださると、この余話以上に驚かれることがあるように思います。


付記(2):会報第38号(29~30頁)に、龍王山の地質・半尾川扇状地と題した研究報告(予報)がありますので参考にしてください。
図版説明
(編集上の都合で、図版の位置がすべて表紙と裏表紙に配置されていることをお詫びします)

* 図版I(裏表紙)
-1.池に沈んだ落ち葉の裏側に生みつけられたモノアラガイ類の卵のう(嚢)
-2.池の底で冬越しをしていたウシガエルのオタマジャクシ
-3.柿を食べたキツネの糞(いくつか形の違う種を見ることができる)
-4.水草の間で冬越しをしていたメダカとヌマエビの仲間
-5.ニュルニュルと細いイタチの糞(桑原先生の表現)― 散策道の土砂止め袋の上でよく目立つ

画像をクリックすると拡大します。

裏2.jpg

* 図版II(裏表紙の内側)
-1.方形に発達している花崗岩の節理 ― 上位 の岩塊が水平節理面に沿って、川の中央に動き、垂直節理面が川の中央に向けて傾いている
-2.新立1号古墳の石室の天板に使われている捕獲岩をもつ花崗岩質岩
-3.断層面にはっきりと残されている線状擦痕.
僅かに南へ傾いていることに注目
-4.断層面に平行に近い無数の割れ目(せん断破壊面 - ハンマーのある面がもとの水平に近い節理面と考えられる

画像をクリックすると拡大します。

裏1.jpg

* 図版III(表紙の内側)
-1.断層崖(垂直)
-2.1.の北側に続く断層崖
-3.新立1号古墳の石室(捕獲岩を持つ花崗岩にこだわった古墳であることに注目)
-4.半尾川の河床にひろがる水平節理面 - 奥の垂直節理面が川の中央に向けて傾いているのがよく分かる(図版II-1)

画像をクリックすると拡大します。

図版.jpg
 表紙の写真説明の補足―「半尾川扇状地」の地形

 特集―龍王山の自然についての編集が終わった後に、表紙の写真とともに、「半尾川扇状地」の形を理解するために地形図によって、その形を証明する方策を探っていましたが、市街地の再開発前、昭和44年(1969)に発行された2万5千分の1地形図:安芸西条および白市図幅上で、等高線による扇状地の形を推測することができました(下図参照)。

 半尾川の上流域が狭くなる谷の出口付近と、“扇状地”堆積物の分布が推測される西条駅南方付近との標高差は30mに達し、扇状地上の枝別れした流路も推測されます。扇状地の要の部分から、その縁辺地域までの距離は2kmあり、扇状地中央部がなだらかに高い(=堆積物が厚い)形が復元されます。

 現在、「東広島の自然誌」(II)、“西条層―古黒瀬川―幻の湖”を編集中ですので、もう少し詳しく報告いたします。


画像をクリックすると拡大します。

その1.jpg

その2.jpg

その3.jpg

その4.jpg


第Ⅱ部

花ヶ迫古墳群について

広島大学大学院文学研究科 考古学研究室
古瀬 清秀

 東広島市で一番有名な古墳といえば、それは三ツ城古墳であろう。この古墳は広島県一の大古墳で、昭和62年から平成3年までの5ヵ年に亘る復元整備事業がなされ、今では古墳公園となり、県内では市民にもっとも親しまれる遺跡の一つとなっている。

 ところが、この西条盆地にはもっと注目すべき古墳がひっそりと、しかも、市民の憩いの場所に残されているのだが、案外と知られていない。花ヶ迫古墳群、これがその古墳の名前だ。

 この古墳群はJR西条駅のちょうど真北、標高575mの龍王山の南側ふもとにある。ここの谷筋は「憩いの森公園」として整備され、休日ともなれば多くの市民が憩う。古墳群はこの公園の周囲を囲む山林の中にある。古墳公園としての整備がなされていないため、すぐにはそれと分からないが、実は13基もの古墳が点在している。これらは2〜3基ずつ、谷を挟んだ尾根上に5群に分れて築かれている。それぞれ新立古墳群、常七古墳群、小山古墳群などの名称があり、花ヶ迫古墳群はそれらを一括した総称で、行政区画上は東広島市西条町大字寺家字花ヶ迫である。

 古墳は地域の首長、豪族の墓として理解されることが多い。確かに三ツ城古墳などを見れば、それもうなずけることだ。古墳時代とは古墳が築かれた時代のことであるが、その前半期、つまり西暦3世紀後半から5世紀前半の約200年間はその意味合いが強い。ところが後半期、西暦5世紀後半から7世紀半ばにはそうした支配者層の墳墓に加えて、台頭してきた有力農民層の墳墓が出現することとなる。家族墓の出現である。それらは全国共通した特徴を持っている。土饅頭形の墳丘の大きさはせいぜい直径10m前後で、内部に横穴式石室という、大石を組合せた石室を持つ。この型式の石室は横口式で、死者が出るたびに入り口を開けて追埋葬できる。6〜7世紀に築かれ、その多くが群集するので後期群集墳と呼ばれる。こうした後半期古墳は、前半期古墳が比較的高所に位置するのに比べて、当時の集落に近い里にあることが多い。

 さて、花ヶ迫古墳群は13基全てが小規模な円墳で、横穴式石室を持つ。典型的な後期群集墳だ。墳丘の規模は直径10m前後で、最大のもので約14m、石室は全長5m前後がもっとも多く、7基ある。最も大きい新立1号古墳の石室は全長8.1m、幅は1.25m〜1.65m、高さ1.5mの大きさである。石室内の床面積は約12㎡だから6畳間程度の広さがある。天井には大石6枚が架かっている。この中に棺を納めるが、かがんでようやく歩ける程度の高さだ。他の発掘調査例で見ると、多い場合、10人近く埋葬されていることがある。副葬品も須恵器という灰色の硬い焼き物や、勾玉など装身具、鉄鎌などの農具、といった日常の生活で使うものが多い。時には鉄刀や弓矢、馬具も含まれることがある。こうした副葬品からは、埋葬される人たちは通常は農業に携わり、事ある折には兵士にも変貌する姿が見えてくる。

 古墳時代中頃、5世紀代に朝鮮半島から農業や土器作りや鉄器作りなど手工業に新しい技術がもたらされる。この結果、社会の諸生産力が上がり、力をつけた農民や手工業者たちも古墳作りに参加する。彼らの古墳は家族とともにあの世の安寧を求めるものであり、権威、権力を示すものではない。そのため、極端に大きすぎることも豪華すぎる事も必要ない。花ヶ迫古墳群もそうした経緯で築造されたもので、西暦6〜7世紀ごろに作られたようだ。この地域で農業に従事する有力な農民たち数家族の奥津城で、支配者の墓としての三ツ城古墳などとは墓作りの理念が根本的に異なっている。

 東広島には古墳が多いが、その分布は特徴的だ。三ツ城古墳のある西の西条の盆地と東の高屋の盆地の2群に大きく分かれるが、前半期古墳のほとんどが高屋の盆地に集中する。西条の盆地は三ツ城古墳の存在で注目されるが、むしろ古墳は少なく、花ヶ迫古墳群などの後半期古墳が北半の龍王山麓で目立つ存在となっている。

 古墳の分布から見る限り、東広島では4〜5世紀には高屋町域、6〜7世紀には後に国分寺が建立される西条町域に古墳が目立っている。古墳の数から言えば、高屋の盆地の方が住みやすい土地柄であったのかもしれない。花ヶ迫古墳群には支配者層の墓は含まれていないので、三ツ城古墳ほどの華々しさはないが、むしろ古代家族の成り立ちや集落の規模など、当時の社会を復元する上では一層、貴重な情報を提供してくれる存在といえよう。(図版III-3参照)

東広島の自然(2008.12)No.40 掲載

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional