自然に親しみ、観て触れて学びながら、自然を守ろう

山陰海岸の旅

沖村雄二先生と行く山陰海岸の旅(Ⅱ)

加納 千里子


 未曾有の被害をもたらせた東日本大震災から2年を経過した。家並を飲み込みタンカーを押し上げた津波の脅威は、まさに地球が生きているという畏れを伴って未だ生々しい記憶となって押し寄せる。
 遅々として進まぬ復興の苛立ちから、力強く立ち上がったものがある。青森県から千葉県までの、失われた海岸林を再生させる10年計画のプロジェクトだ。子どもの頃、海に面した町の松林にある社宅に住んでいた。「二百十日」の嵐は大量の砂を巻き上げ、高台にある家の中は拭けども拭けども砂埃りでざらざらだった。防風林や防砂林の必要性は、海沿いに暮らす者でなければ理解できないものであろう。ましてや厳寒の地であれば尚更のことである。何も出来ないでいることの罪の意識が少し和らいだ。ささやかな草の根にしかなれないと思いつつ、声を出す勇気を与えられた気がした。
 「沖村雄二先生と行く山陰海岸の旅」もまた、地球の歴史に触れる旅である。心新たにして向き合いたいと思っている。
 前回(平成22年2月3日、No.42)から引き続きご報告させていただく。

(五)石見畳ヶ浦と桑田岩石園
 平成22年7月28日。雨にたたられる日が多い山陰海岸の旅も、この日は穏やかな一日だった。浜田市にお住まいの島根県地学会会長・桑田龍三先生のご案内で、国の天然記念物に指定された石見畳ヶ浦を訪ねた。初めに、高さ40mもの切り立つ崖を背に、何故この崖が崩れないかを実験された。(写真1)

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写真1

 貝の化石から染み出した炭酸カルシウムが糊の役目をし、長い年月をかけて固まったこと。そして、1億年を1mとした45mの紐を取り出して、地球誕生から生命の誕生、恐竜の全盛を示し、最後に人類の誕生を示された時、余りのことに目を疑った。人類の誕生は僅か2cm足らずであったのである。頭上の崖を見上げながら、我が物顔に地球を支配する人類の行く末を垣間見た気がした。
 崖を刳り貫いたトンネルを抜けると千畳敷と呼ばれる波食棚が広がっている。目の前に直径30cmはあろうと思われる丸い形の石が奇妙に並んでいた。先の炭酸カルシウムの作用で堅く固まった、ノジュールと呼ばれる砂・泥岩の塊である。風化や浸食をまぬがれて転がる姿は実に奇怪である。(写真2)

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写真2

畳ヶ浦には、新第三紀・中新世の貝やさまざまな化石が多く観察され、約1,600万年前の生物に触れることができる天然の博物館。(写真3)マグマ噴出時に入りこんだ岩脈や断層も観られ魅力は尽きない。

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写真3

 沖村先生と土岡氏は、昼食後桑田先生とご一緒に、黄長石霞石玄武岩を観察に行かれた。一般の人には解りませんと、残された我々は江津市の大崎鼻に向かった。万葉の歌人・柿本人麻呂が京に旅立つ際、妻である依羅娘子(よさみのおとめ)と相聞歌を交わしたと伝えられる大崎鼻に立って、暫し、眼下に拡がる紺碧の海に浸った。
 予定していた平下家が中止になり、急遽、桑田岩石園にお邪魔することとなった。桑田先生が蒐集された個人の岩石園である。田圃に囲まれた長閑かな山里に几帳面に並べられた岩石群は、所を得た野仏のような趣を醸し出して鎮座していた。ユニークな岩石園は、金城町の島村抱月記念公園の川向かいにある。鄙ではあるが、文化の香り漂う地であった。

(六)石見銀山石銀地区と都野津層群
 平成22年10月6日。三瓶自然館サヒメルの中村唯史氏と合流し、世界遺産センター近くの都野津層群・水上層を見学した。石州瓦の原料となる粘土層の露頭である。
 都野津層群は大田市西部の温泉津町から益田市にかけて広がる堆積層で、約400万年から100万年前に堆積した砂と粘土の互層。現在はすでに掘りつくした荒れ地になっていて、ところどころに深い爪痕が残り、ひび割れた粘土の層は枯渇した湖底のように黒々と口をあけ、異形のものの気配がする。風に舞う乾いた粘土の匂いと蕭条とした風景の中にいて、ふと、孤独感でいっぱいだった。(写真4)

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写真4

 午後から大森で牧場を営んでおられる竹下弘氏が加わり、世界遺産に登録されて間もない石見銀山石銀地区のある仙ノ山を目指した。(写真5)日本海沖から豪商神屋寿禎によって発見された石見銀山は、400年にわたる採掘の歴史をもち、世界に誇る鉱山遺跡である。その山の頂が金色に輝いていたと伝えられる仙ノ山へは、思いのほか、険しい道のりであった。

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写真5

 銀山最大の坑道である大久保間歩や、発見時うっそうとした竹藪に覆われていた釜屋間歩のある本谷地区は、銀鉱石の採掘跡が集中する地区で、まだまだ未発見の間歩が多いと聞く。岩盤をけずった階段やテラスを持つ釜屋間歩の傍らにズリ場がある。日が翳ると、どんよりと空気が淀んでいた。(写真6)

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写真6

 これ以上登れないという数名を残し、健脚組は仙ノ山頂上の石銀地区を目指して再び登りはじめた。観光客の集う大森地区の華やかさには届かぬものの、銀山発見の舞台として、仙ノ山界隈には一味違った魅力がある。

(七)三瓶自然館サヒメルと鉱物展
 高校時代の後輩であるソロの和太鼓奏者・林英哲の奉納コンサートが、松江市美保関町の美保神社であった。泊まりがけで出かけた翌日、三瓶自然館サヒメルで開催中の夏の特別企画展「鉱物―きらり。地球の造形美」に立ち寄ることにした。今まで見たこともない美しい原石や貴重な鉱石が250点、所狭しと展示されていた。見事な地球の宝ものたちを前にして、「岩石の会」でも組んでみたいと希望者を募った。
 平成23年9月7日。「きらり展」にふさわしく澄み渡る青空の下、サヒメルに到着した。
 さまざまに見応えのある原石や鉱石の多い中、明治時代に採掘され銀山の守り神である佐毘売山神社に奉納された、現存する最大級のものといわれる石見銀鉱石と、近隣の松代鉱山から採掘された球状アラレ石は、ひときわ光彩を放っていた。(写真7,8)

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写真7               写真8

 石膏を産出した松代鉱山はすでに廃鉱で獣道になっている。アラレ石は炭酸カルシウムの鉱物で、絹糸の手鞠花のように美しい。以前から気にかかっていた鉱物で、それが大小10数個も顔を揃えている光景は圧巻である。出来得るものなら僅かな欠片でも頂戴したいものと垂涎の的であった。
 その他、巨大なペグマタイトや、玄武岩などの空洞にできるオーケン石と呼ばれる綿飴状の鉱物など、地球の不思議に触れた貴重な1日だった。(写真9)

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写真9

(八)鹿足・匹見層群と粘板岩
巨木の下見で益田市匹見町の山道を走っていた時、ふと眼下に異様な塊が飛び込んできた。それはまるで大蛇の腹のようにぬめぬめと漆黒の光沢を放っていた。見れば採石中の山肌も黒いのである。川の側まで近づいて観察すると、其処彼処に岩ともつかぬ黒い塊がべったりと迫り出していた。気になって仕方ないので、道路端に落ちていた欠片を一つ拾って帰った。(写真10)

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写真10

 後日、沖村先生にお尋ねすると、匹見町には、鹿足層群・匹見層群と呼ばれる独特の地層がありますと仰った。では何時か―と約束したまま時だけが流れていたが、10月26日、匹見町まちづくりコーディネーター石橋留美子さんのお世話で八万物産砕石場を訪れることになった。
 砕石場入り口にうずたかく積み上げられたバラスの山を見ながら、ほとんどがセメント工業の骨材やアスファルトの原料になると伺い納得した。
 ひと通り砕石場をご案内いただいた後、気になっていた川床に下りた。迫り出した黒い岩塊は約1億5千万年前の泥岩で、恐竜がいた時代のものらしい。「この辺り一帯はアジア大陸の東の端っこでしたから、もしかすると恐竜の化石が見つかるかも知れませんよ。でも、この場所では無理だなあー。」と沖村先生がぼそりと仰った。砕石場の地質は度重なる地下変動によりぐしゃぐしゃになっている地層で、混在岩相と呼ばれているそうだ。
 黒い岩盤を縫って流れる水音を聴きながら、恐竜が生きていた時代はどんな風景だったのだろうと、原始の森に想いを馳せた。
その後もう一箇所、匹見川の川原に下りて流紋岩や褶曲した地層を観察し、奇岩が連なる表匹見峡を眺めながら帰路についた。暮れてゆく匹見の森は、太古の昔へと続くロマンに満ちていた。

(九)都茂丸山鉱山跡と金谷城山桜
 益田市美都町金谷の城山桜は、樹齢600年を超えるエドヒガンザクラの大樹である。
 この桜に初めて出逢った時、雨が降っていた。細い山道をくねくね上って来て急に視界がひらけたと思った瞬間、目を奪われた。萌葱色に霞む小さな谷が花に埋もれていたのだ。そうして、谷を見守るように山の天辺で大きな桜が満開を迎えていた。雨に煙るその桜は、言葉には表せないほど妖艶で美しかった。以来ときどき逢いに行くようになって、いつの間にか持ち主でいらっしゃる澄川雅是ご夫妻と親しくお付き合いさせていただく仲となった。(写真11)

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写真11

 平成22年、江戸時代の天領として繁栄した都茂村の管理を任されていた澄川家の蔵の中から、「美濃郡都茂村絵図」が発見された。天領当時の都茂鉱山と地域の様子を知る貴重な資料となり、石見銀山領としての関わりも確認できたそうである。今、若者を中心とした都茂直進会が発足し、間歩や住居跡の調査が進められている。
 平成24年4月4日。金谷城山桜の開花に合わせて都茂丸山鉱山跡を散策した。益田市の教育委員会や都茂公民館、澄川ご夫妻の参加を得て、賑やかな観察会となった。
 都茂丸山鉱山の歴史は古く、平安時代にはすでに発掘が始まっていたと史料にある。約8,000万年前に活動したマグマによる熱水作用を受けて生成されたスカルン型鉱床で、主に磁鉄鉱、磁硫鉄鉱、黄銅鉱などを産出した。何をしてもよろしいと所有者の許可を得て、沖村先生は立ち止まってはハンマーを振るわれた。断面が胡麻をふりこぼしたようにキラキラ輝いていた。磁気を帯びていると聞いて、皆、あれこれくっつけては燥いでいた。
 閉山以来荒れるにまかせた坑道入り口には柵があり、石見地方最大級といわれる鉱山の在りし日を偲んだ。
 最盛期には2,000人もの坑夫が生活していたといい、住居跡や郭跡、墓地なども発見されており、世界遺産に登録された石見銀山遺跡とともに新たな歴史を刻める日を待ちたいと強く思った。(写真12,13)
 城山の桜はまだ堅い蕾であった。

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写真12

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写真13

(十)三子山珪砂と石見鉱業所
 いつだったか沖村先生が、「日本のビール瓶の80%が三子山の珪砂でできている。」と仰った。それまでビール瓶の原料など考えたこともなかったが、そう言われてみればビール瓶もちゃんとしたガラス製品である。“キリン”のレッテルと同じように、瓶の原料がどんなものなのか気になりはじめた。それが山にあるということも不思議だった。
 平成24年10月3日。大田市の東部まちづくり支援センターのお世話で、操業中の三子山とシリカ工場を見学させていただけることになった。
 三子山の砂層は海から運ばれた砂が堆積した”砂丘”と考えられ、石英粒の多い良質の珪砂鉱床である。沖村先生が調査に入られた時とは数十年の隔たりがあり、その間、第一採掘場は掘りつくして埋め立てられていた。しかも現在、ビール瓶の原料としての加工ではなく、京都府舞鶴市の日本板硝子(株)の工場に運搬し自動車用ガラスや液晶ガラスに加工されているそうだ。車のフロントガラスやスマートフォンに使用されていると知って、時代の変換に驚きを隠せなかった。
 日本シリカ工業では、運ばれた原砂の精製工程を見学させていただいた。水洗や分級を繰り返し、透きとおったガラスの砂に変わる姿は何だか愛おしい。ルーペで観察すると、紛れもなく石英の結晶だった。
 この日は温泉津港から舞鶴港へ向けて原料用珪砂を出荷させる日にあたり、工場内ではひっきりなしにダンプが出入りしていた。舞鶴は私の出生地。珪砂に埋もれて夢は舞鶴に飛んでいた。(写真14)

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写真14

 三井金属資源開発・石見鉱業所のゼオライト鉱床(沸石:火山噴出物が続成作用でできる鉱物)の坑道は、掘削機で岩盤を削る地下坑道である。長グツにヘルメット姿で暗い泥濘を歩くのは容易ではない。暗闇恐怖症の私はゼオライトを観察する以前に、転ばぬようにおいてけぼりをくわないよう付いて歩くのが精一杯だった。故に、説明も聴かぬまま折り返し外に出て、狐につままれたような気がした。ただ一つ、ゼオライトは放射能に汚染された物質を吸着するということだけは、しっかりと頭に入れた。
 東京電力の福島第一原子力発電所の事故は、即座にチェルノブイリを想起させ、世界中の人々を震撼させた。目に見えぬ恐怖と闘いながら故郷を追われる身の心境は推し量るすべもない。
 石見鉱業所のゼオライトは吸着率が高く、放射能物質を含む汚水処理吸着剤として福島に送られているそうだ。それにしても、吸着した放射性元素が半減する年数は、もっとも短いものでも30年の歳月、長いものでは万年の単位が必要という。小さな島国である日本列島に数ある原子力発電所の有り様を、真摯に考える時期が来ている。(写真15,16)

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写真15

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写真16

 帰路、鬼村に立ち寄り、凝灰岩の塩類風化によって形成された鬼岩を観察した。鬼村付近には石膏を採掘した鉱山があったといい、奇岩に空いた無数の穴から白濁した糸のようなものが垂れ下がっていた。静かな山里に突如として現われた巨大奇岩・鬼岩。今を盛りと咲いている彼岸花に囲まれて、誠に不気味で摩訶不思議な光景であった。(写真17)

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写真17

おわりに)
 10回を区切りとして、また新たな旅が始まった。素人の感性が面白いからとおだてに乗って始めた旅だが、よく続いたものだと感心する。それもみな、あたたかく見守って下さった沖村雄二先生と、絶大なご協力をいただいた島根県自然環境課、三瓶自然館サヒメル、大田市東部まちづくり支援センター、そして、一緒に旅をして下さった総ての皆様あればこその賜。改めて、心からの感謝を申し上げたい。
 「地球は生きている」
 森羅万象に謙虚であらねば、と思っている。

 最後に、「山陰・島根ジオサイト地質百選(島根地質百選選定委員会)」を参考にさせていただいたことを記して筆を擱きます。稚拙な原稿を取り上げて下さった東広島市自然研究会の皆様、本当にありがとうございました。

感謝。

東広島の自然(2013.3)No.44 掲載

資料『沖村先生と行く山陰海岸の旅
2008.10.22
島根県益田市 鎌手の唐音の蛇岩。
山口県萩市 須佐ホルンフェルス。畳が淵・田万川の龍鱗郷。
2009.7.11
島根県大田市 波根西の珪化木。大森のガチャ。小豆原埋没林と三瓶自然館サヒメル。
2009.10.7
島根県大田市 仁摩の珪化木。三瓶山志学展望所。上山本宮神社大杉。
2010.5.26
島根県松江市 島根半島、須々海海岸せんたく岩。桂島。玉作資料館。花仙山。
2010.7.28
島根県浜田市 石見畳ヶ浦。桑田岩石園。大鼻崎(江津市)。(黄長石霞石玄武岩、沖村・土岡氏)
2010.10.6
島根県大田市 都野津層群・水上層粘土採掘場跡。石見銀山石銀地区。
2011.9.7
島根県大田市 三瓶自然館サヒメル〈鉱石展〉。小豆原埋没林。
2011.10.26
島根県益田市 鹿足・匹見層群。八万物産砕石場。表匹見峡。
2012.4.14
島根県益田市 都茂丸山鉱山跡。金谷の城山桜と城山
2012.10.3
島根県大田市 三子山珪砂。日本シリカ工業。三井金属資源開発石見鉱業所ゼオライト坑道。大屋の鬼岩。



沖村雄二先生と行く山陰海岸の旅

加納 千里子

〈はじめに〉

平成の大合併で呼びなれた地名が消滅した年、青春のひとときを過ごした県北の小さな城下町、比婆郡東城町をふる里に持つ同郷の有志が集まって、「広島東城同郷会」が発足した。その時の総会で声をかけていただいた方が、大先輩でいらっしゃる広島大学名誉教授で理学博士の沖村雄二先生であった。出会いとは本当に不思議なものである。その日を境に、なんの変哲もない私の人生に〈地学〉という思いもよらない大きな花が咲いたのである。

ある日、「巨木と地質を一緒に歩くと面白いですよ」と仰ったことが切っ掛けで、「沖村雄二先生と行く山陰海岸の旅」が実現した。都合よく、島根県自然環境課との連携で島根の巨木と文化を訪ねる旅をしていたところで、渡りに船。魅力に溢れた山陰海岸をご案内することとなった。

雛にとっては何もかもが驚きの連続。生きた地球の歴史を目の当たりにして、畏れと感動で息をのむ旅の始まりであった。

(一) 唐音の蛇岩(からおとのじゃがん)

第一回山陰海岸を訪ねる旅は、平成20年10月22日(水)島根県西部の町、益田市鎌手にある国の天然記念物「唐音の蛇岩」から始まった。車中、沖村先生による地質鉱物の話をうかがいながら一行19名はまだ見ぬ恋人に逢うように心弾ませていた。

唐音の蛇岩は日本海に突き出た約一億年前の海食台地にあり、きらきら輝く石英粗面岩の巨大な岩盤を貫いて黒褐色の安山岩質の岩脈が走り抜けている。その有様はまるで大蛇がのたうつように屈曲を繰り返し、海中に没しては這い上がり這い上がりしている。

露出した岩肌は生きて呼吸をしている気配がして、油断するとぬめりとした赤い舌先に搦め捕られそうであった。小さな柱状節理の断面の模様が大蛇のうろこに見えて戦りつが走った。

画像をクリックすると拡大します。

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岩盤は足場が悪く危険を伴うこともあって、鎌手公民館の方々が応援参加して下さった。
お陰で誰一人として怪我もなく悠久の大地に想いを馳◎会員の活動報告せられたことに感謝している。
日本海の美味しい魚料理をいただいて、午後は山口県萩市須佐町のホルンフェルスに向かった。

高温の火成岩体貫入によって変成した、砂岩と頁岩の縞模様が美しい大断崖で、割ると角ばった形に割れるところから「角石」(つのいし、ホルンフェルス)と呼ばれている。打ち寄せる荒波が地獄の底に引きずり込むような轟音をたてる中、その雄大な景観は自然の驚異を感じさせ目を見張る美しさである。

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須佐町にはもう一箇所、玄武岩が整然と並んだ畳ヶ淵がある。
約18万年から40万年前にできたと推定される玄武岩の淵で、両岸には六角柱の柱状節理が屹立し、淵の底には亀甲状の柱頭が敷石を敷き詰めたように大小連なって行儀よく並んでいる。

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草に埋もれた六角状の頭の上を歩きながら、時空を超えて地球の胎内に包まれている不思議な感覚を憶えた。
下見の日は雨上がりで薄暗く、何処かもののけが潜んでいる不気味さがあった。この日はからりとした晴天で、しかも“地質博士”と一緒であるとこうも違うものかと驚いた。

岩質は結晶体を包含し、地質学的にも特異な存在であると案内板にあった。近年は訪ねる人もなく見るからに鬱蒼としているが、知られぬ方が破壊を免れるということもあって、ひそっとしておく方がよいのかも知れない。

とにもかくにも、こうして第一回目の山陰海岸の旅が終わった。地球のエネルギーの凄まじさに圧倒された一日だった。

(二) 大森のガチャと波根西の珪化木

平成21年7月1日。朝からの雨が浜田道に入るとますます豪雨となり一寸先も見えない状態になった。横に座っておられた沖村先生が「地質の会では、こんな日は休みます」とぽつりと仰ったので、お連れする私の方はどうしてよいのか途方に暮れた。それでも降り止まぬ雨を突いて約束の大田市役所に到着した。

三瓶自然館サヒメルの中村唯史氏が、行程を変更しましたからと先ずご案内下さったのが、大田市静間の「静の窟」(しずのいわや)であった。
大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が国造りを想談したとの伝承がある海食洞窟で、雨の寒さも手伝って何となく神憑りした寂びた海岸である。洞窟の中にはそれらしき碑が祀られているが、岩石が崩落する危険があるということで、現在は立ち入り禁止になっている。

その洞窟のある崖をじっくり観察されていた先生が、突然、「これは大森の〈ガチャ〉というニックネームがついている火山噴出物です。これほど大規模な〈ガチャ〉を見るのは初めてです。」と少し興奮気味に話された。二千数百万年前、浜田地方から大田市にかけての日本海沿岸は頻繁に火山活動が起こり、はっきりとした地層の連続を追跡するのが難しいとのこと。理由は雑色火山礫あり火山灰ありという複雑な岩相は〈ガチャ〉と呼ぶ表現がふさわしいといい、妙に感心した。

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タタラ製鉄の名残であろうか。海岸には砂鉄が帯をなし、小さな金クソが転がっている。遠いむかし、大陸と繋がっていたという日本海を背に、雨に煙る静の窟はひっそりと鎮もっていた。

久手町波根西の珪化木では、雨にもかかわらず地域や報道関係の方々が大勢出迎えて下さった。後日、島根県の環境キャンペーンの紙面を飾ることになるが、国の天然記念物でありながら他県から訪れることが珍しいことであったようだ。眠っている宝ものの発掘に一石を投じたとすれば何よりである。

珪化木は長い年月をかけて樹木が鉱物に変化したものである。
波根西の珪化木は、身の竦むほど高くて細い小道を下りた岩礁帯にあり、浸食された海食洞の底から突き刺さるように立ち上がっている。

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この日は波が荒く、珪化木の突きでた海の底は漆黒でどんよりと澱んでいた。
約1500万年前の岩礁の下には、まだ多くの珪化木が埋もれているという。その光景を想像すると心が震えた。今、まさに私が立っている足下に、万年も億年も生きている世界があることを痛いほど思い知らされた瞬間であった。

三瓶山の火砕流に埋もれた縄文の森、小豆原埋没林公園と三瓶自然館サヒメルを経由して帰路に着いた。雨に濡れた木々が一段と美しく輝いていた。

(三) 仁摩海岸のグリーンタフ

10月7日。7月の旅で断念した大田市仁摩のグリーンタフに向かった。
〈弁当忘れても傘忘れるな〉と言われる山陰。あろうことかこの日は台風の接近で暴風雨波浪注意報が発令され、またまた沖村先生が苦笑いされた。三瓶山に入ると横殴りの雨風で、またも断念かと臍を噛んだ。

午前中は予定通りの行程をこなすことにして、志学展望所で三瓶の地層を観察した。
志学展望所のある場所は約7万年前の火山活動で生じたカルデラの外輪山にあたり、火山活動を示す地層がよく分かるように斜めに切り取られた崖になっている。何万年も積み重ねられた地層は想像をはるかに超えて言葉もない。縞模様が目立つ約7万年前の湖成層と呼ばれる堆積物の中には、小さな小さな雨の跡(火山豆石)が見られた。三瓶山の火山灰は山陽や関西でも発見され、遺跡などの年代を知る目印となっているそうであるが、ただただ立ち尽くすのみであった。

志学から数分の上山地区に本宮八幡神社がある。境内には島根県下有数の巨樹、樹齢800年の大杉が聳えている。威風堂々と枝を張る姿はまことに勇壮で、神宿る風情を醸し出していた。豆粒程の雨の跡に感激した後で、余りの大きさに肝を潰した。

三瓶そばで昼食を済ませて外に出ると、少し風が止んだ。もしかすると裏風になっているかも知れないからと、とにかく仁摩海岸に下ることになった。

頭上高く伸びた柴山の道なき道を水の流れに沿って下りていくと、突如として紺碧の海が広がった。難所の岩場を乗り超えると一面に翡翠色の岩礁帯である。嬉しいことに風はぴたりと止み、波も穏やかで、はるか遠くの沖まで平らな緑が続いていた。島根半島から大田地方にかけて広く分布しているといわれるグリーンタフ(緑色凝灰岩)だが、さまざまな鉱物を含んで宝石の集合体、まことに艶やかであった。

沖村先生は水を得た魚。私達小魚を忘れてご自分の世界に没頭しておられる様子である。中でも、グリーンタフに埋もれた玉葱状の塊と、真ん中にどっかりと横たわっている巨大な珪化木を熱心に観察されていた。「この場所は皆さんに教えたいことが山程ある。」と言われながら、そこここに飛び跳ねては観察を続けられ、結局、話は次の機会に持ち越されることとなった。

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台風の接近に伴って波頭が高くなってきた。それぞれに心を残しながら引き揚げることにした。空は重たく垂れ込めていたが、グリーンタフの艶やかさは今も脳裏から離れない。
三瓶東の原には、木々を薙ぎ倒す勢いで、風がびょうびょうと吹き荒れていた。

(四) 洗濯岩と桂島

平成22年5月26日。第四回山陰海岸を訪ねる旅の行く先は、かねて夢にみた、松江市の北部、日本海に突きでた島根半島「加賀の潜戸」(かがのくけど)である。地殻変動や海食作用でうがたれた雄大な海食洞窟で、『出雲国風土記』で佐太大神が生まれた地とされる。“神の潜戸”と、夭折した子供の魂がたどり着く賽の河原の伝承をもつ“旧潜戸”がある。いずれも気魄に満ちた神秘的景観をかもしているとして、一度は訪ねたいと思っていた念願の地だ。
ところが、またもや天は大きな悪戯をした。すでに五月だというのに霙まじりの暴風雨に見舞われたのである。さすがに観光遊覧船は欠航で、加賀の潜戸は諦めるより仕方なかった。午後からの行程を繰り上げて、大芦須々海海岸の洗濯岩と桂島に向かった。

吹きさらしの峠から見下ろす洗濯岩は、荒波砕け散る壮観な眺めであった。砂岩と頁岩の互層が織り成す美しい海岸は、まさに鬼の洗濯岩。「こんな景色もめったに見られません。今日は却って好運でした。」と沖村先生がぽつりと仰った。あちらでもこちらでも亀のように襟を縮めながら、みごとな崖下を覗き込んでいた。

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加賀港からつながる神埼橋を渡ると、すぐ右側の足下に小さな礫が集まった蜂の巣状の岩塊が海の中から突きでている。黒い柱状の岩塊は触れるとざくりと口を開け、奈落の底に引っ張り込まれるような得体の知れない不気味さがあった。橋の左側には大きく湾曲した岩盤が、当時の凄まじさを彷彿させて横たわっていた。流紋岩の板状と柱状部分が重なりあって規則正しい縞模様に弧を描いている。片足が乗っ掛るだけの足場とあって、高所恐怖症にはどうすることもできない。ただ橋の袂から眺めるだけであった。

島の北側では、柱状節理がよく発達した岩盤の割れ目に瑪瑙の岩脈が見られた。桂島の遊歩道は宝の山。暖地性の植物が混生する貴重な宝庫でもある。岩場に群生するベンケイソウの仲間で、タイトゴメという珍しい名前の花も観察した。
周囲1キロ足らずの小さな島は、思いがけなく心揺さぶる興味深い島であった。

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瑪瑙の繋がりで午後からは玉湯町の出雲玉作資料館を訪ねることになった。
玉湯町は勾玉発祥の地として知られている。
宍道湖を望む花仙山からは玉の材料となる碧玉が産出され、古くから玉作りが行われて来た。出雲玉作資料館で貴重な資料を見学し、瑪瑙の坑道が見られるという花仙山に案内していただいた。濃い緑色をした岩脈を覗きみながら思わず知らず溜め息が出た。
雨には雨の良さがある。
今日の旅もまた良い旅であった。

〈おわりに〉

確定申告が終わってやっと一息ついた。
さてこれから、と原稿に取り掛かった途端、東日本が未曾有の大震災に襲われた。
友人知人が多く、瞬時にしてパニックとなり頭が真っ白になった。
眠れない夜が続き、何もできないうちに日常だけは否応なく過ぎてゆく罪悪感に捕われて、呼吸することさえ辛くなってきた。医師は、「普通に生活できることを感謝して暮らしなさい」とか、「考えてもどうにもならない事は考えないようになさい」とか仰る。それができれば何も心を病むことはないのである。
やっと物事が普通に考えられるようになって、はたと気がつくと、原稿の遅延は甚だしいことになっていた。

「沖村雄二先生と行く山陰海岸の旅」は第六回まで続いているが、「都野津層群と石見銀山」、「畳ヶ浦と大崎鼻」は次回、ご縁があればご報告させていただきたい。

山陰の海岸は面白い。そして、太古の風が吹く沖村雄二先生との旅は楽しい。発端は先生の一言であったが、いつの間にか主宰として「岩石の会」を立ち上げることになった。年2回。今年の行程は「馬谷鉱山ペグマタイト」と「宍道町と来待石」を計画、日程の交渉に入っている。

東広島市自然研究会の行事としてご要望があれば、沖村雄二先生とご相談の上、旅への機会をつくりたいと思っている。

最後に、原稿の遅延を辛抱強くお待ちいただいた土岡会長と編集委員の皆様に、心からの感謝とお詫びを申し上げます。


東広島の自然(2011.3)No.42 掲載

「沖村雄二先生と行く山陰海岸の旅」のお問い合わせ、参加希望などはご一報ください。(土岡)

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