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ブログ/2013-10-12

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滝夜叉姫

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写真1 滝夜叉姫(安芸高田市美土里町・天神神楽団)

ミーアキャットです。
 神楽のファンとしては,『滝夜叉姫』にふれたいと思います。長い文章になりましたが,すみません。 
 平安時代中期,坂東(関東)の豪族であった平将門は,京で贅をむさぼる一部の貴族に対抗して兵を挙げますが,鎮圧されてしまいます。この事件は通称『平将門の乱』と呼ばれています。この将門の娘は”五月姫”といい,父の仇を討つべく,京都の鞍馬山に登り妖術を賜ったそうです。その後『滝夜叉姫』と名乗って坂東に帰り,昔の手下を集めて乱を起したものの,再び鎮圧されます。

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写真2 滝夜叉姫(安芸高田市美土里町・天神神楽団)

 この神楽の定番である『滝夜叉姫』。神楽の演目は,多くが勧善懲悪の話で,中央(政権側)と地方(豪族)の対立を,常に体制側が正しいものとして描いています。これは中央が作った物語だからで,大義名分が原因と考えられます。しかし,たいてい中央と対立した地方の反乱人や悪人は,地元では英雄,名君主とされています。
 神楽の滝夜叉姫は,最後に大宅中将光圀主従に討ち取られます。しかし,実際には本人も,父親と同じように地元では尊敬され,尼になり父将門の霊を國王神社に祀って平穏に亡くなったと言われています。

 そこで,広島県山県郡北広島町の神楽団が滝夜叉姫のルーツを求めて,2003年に福島県いわき市を訪れたそうです。平将門や滝夜叉姫が,現地では尊敬されるべき人として奉られていて,石碑も多く,地元の人達に慕われ,決して悪者ではなかったこと,滝夜叉姫も最後は慧日寺(恵日寺)で亡くなっていた・・・と知り,大いに感ずるところがあったようです。

 このように滝夜叉姫を一方的に悪者とする演目の内容と実際とは異なります。第62回(2010)芸石神楽競演大会では,開演前のナレーションでつぎのように述べられています。『いまからおよそ1000年の昔,平安絵巻で知られる雅な暮らしは,都の王朝貴族だけに与えられ,地方は貧しさにあえぐ日々であった。その頃坂東で万人和平の豊かな国造りを目指した平将門は,時の朝廷に反旗を翻したが,平安の都に弓する地方の時の力として,承平天慶の乱を日本の歴史に残し,つかの間の夢と消え去った。しかし,将門の志は坂東の英雄となり,新しい時代を待ち望む人々の心に刻まれた。将門一門で唯一生き延びた滝姫に将門の魂が宿り,美しき姫は人々の願いに操られ,夜叉となり伝説の舞台を登った。父将門がたどった定めに従い,時を乱す鬼に仕立てられ,悲しい物語の主人公を演じることになった。歴史はいつの世にも,勝つ者に正義という勲章を与え,破れる者はいつのまにか闇の中に葬られるのである』
また,北広島町のN神楽団のように,滝夜叉姫のストーリーを工夫して,妖術を賜った場所を京都の鞍馬山から筑波山に変え,都から派遣された光圀主従との戦いの後,滝夜叉姫の妖術が解け正気に戻って抵抗を止め,最後は仏門に入ったようにしている例もあります。最後には滝夜叉姫が,夜叉面から素顔の五月姫に戻り,光圀主従と共に舞います(YouTubeで見ることができます)。

 この度,福島県いわき市に住まいする知人に,この滝夜叉姫が最後に過ごしたとされる,いわき市の恵日寺の写真をコメント付きで送ってもらいました。
下記の文章はそのコメントです。
 いわき市四ツ倉町林崎・宿間に,慈豊山慧日寺(恵日寺)というお寺があります。門前の由緒案内と恵日寺開創壱千参百年大門屋根社寺瓦葺替改修復記念碑によると,奈良時代和銅二年(709)三論宗慈慧法師が聖徳太子の教えを広めるため,奈良から下向し,当地に慈豊山慧日寺として開創したとあります。平安時代大同元年(809)には徳一大師が奥州に布教をした時に中興されました。
 天慶三年(940)平将門公三女滝姫(滝夜叉姫)が当山に逃れ,仏門に入り,如蔵尼と改め,地蔵菩薩を信仰され,一族の冥福を祈り,終焉の地とした・・・とあります。

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写真2 恵日寺の山門

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写真3 恵日寺の由緒

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写真4 滝夜叉姫の石碑

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写真5 滝姫の和歌

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写真6 滝夜叉姫の土饅頭墓全景(恵日寺裏山山頂)

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写真7 滝夜叉姫の土饅頭墓

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写真8 滝夜叉姫の土饅頭墓の墓石

 写真9は恵日寺内の墓で,右は如蔵大禅比丘尼位,左下に平将門娘俗名瀧夜叉姫公とあります。左の墓は中興の隆恵大禅比丘尼位(1336年頃領主で赴任した岡本忠次郎の娘奏名姫で滝夜叉姫の言い伝えを知り,帰依し中興の祖となった女性)の墓です。

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写真9 滝夜叉姫の寺内の墓石(右側)

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写真10 滝夜叉姫慰霊記念樹(右側),左は茨城県國王神社の記念植樹

 茨城県坂東市にある國王神社は,平将門公の三女・如蔵尼が,父の最期の地に庵を建てたのが神社の創建です。天禄3年(972)父の33回忌に当たって霊夢を得た如蔵尼は,急いで奥州から下総に帰郷し,父の最期の地脇の林の中より怪木を見つけ,一刀三礼しつつ,心厳かに父の霊像を刻んだといいます。刻んだ『寄木造 平将門木像』(茨城県指定文化財)が國王神社の御神体です。『神社分限帳』には,“平将門が討たれた所にその霊を祀った”と記述があります。

 さらに,知人からは次のように知らせてもらいました。
『恵日寺の住職の家は空き家になっていて今まで分からなかったのですが,先日図書館で”いわき”で最も権威のある薬王寺の住職が兼務していることを突き止め,本日朝住職を訪ねて一緒にお参りしてきました。住職は広島の神楽団の訪問は知っていました。私は,N神楽団は,滝夜叉姫の演目のストーリー”滝夜叉姫が討ち取られる”結末を変え,妖術が解けて仏教に帰依して一生を終えたように直したようです・・・と話したら,喜んでくれましたよ』

 神楽を縁に,いろいろなところで,いろいろな出会いかあるものだとうれしく思いました。
 石見神楽・芸北高田神楽を全国の方々に是非見てもらいたいと切に願う次第であります。



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