ブログ/2013-11-03
小早川隆景
ミーアキャットです。
先年,毛利元就の三男『小早川隆景』の史跡巡りに参加しました。
(1) 新高山城跡(国史跡)
小早川隆景は天文2年(1533),毛利元就の三男として生まれ,竹原小早川家に養子に入ります。その後内紛で対立していた沼田(ぬた)小早川家を統一し,広島県三原市の高山城に入城します。その1年後の天文21年(1552)に,沼田川対岸の新高山(にいたかやま)に本拠を移し,『新高山城』を築きました。
新高山(197.6m)は中腹には岩盤が露出し,鋭くそびえ立った山です(写真2)。
山頂には本丸・中の丸などの郭群がありますが,ここへ登る途中の中腹に,父元就を弔ったという匡真寺(きょうしんじ)跡があります。天正5年(1577)頃の瓦のかけらが散乱しています。瓦は厚さが現在の物より厚く,縄文が残っています(写真6~8)。
本丸跡付近には石積みの井戸が沢山あります(写真9)。
山頂の巨石には生々しいノミの跡がくっきり残っています(写真10)。
沼田川をはさんで,新高山の対岸には,以前の城跡である高山が見えます。この高山城は,小早川隆景が新高山へ城替えするまで,約350年間沼田小早川氏の居城であったそうです(写真11)。
新高山頂上からは沼田川沿いの平野が一望できます(写真12)。展望がよくきき,水運の便もよく,家臣の人心一新のために,新高山に城替えしたといわれています。
小早川隆景はこの山城に居住し,海水が進入して耕作できない沼田川沿いの土地の干拓を進め,石高を増やしました。
(2) 三原城跡(国史跡)
小早川隆景は,兄の吉川元春とともに,甥の毛利輝元を助けて中国統一をなしとげ,瀬戸内海の水軍を掌握していました。天正年間の毛利氏の広島城築城と相前後して,小早川隆景は新高山城から三原の平地に降り,沼田川河口に平城の城郭『三原城』を築きました。
その際に,新高山城の石垣をほとんど運んで三原城を築造したそうですが,石垣の一部はまだ新高山城跡に残っていました(写真13)。
三原城は,城と港を一体化した城で,『浮城』とも呼ばれるそうです。船が堀を通って城に直接接岸できるのです。
写真14~15は,旧広島藩士の画家・岡眠山(おかみんざん)が1802年に描いた『絹本著色登覧画図(けんぽんちゃくしょくとうらんがず)』の一部分の複製で,JR山陽本線三原駅の壁のレリーフです。海岸沿いに三原城が描かれています。
この三原城跡は広大な敷地に広がり国指定史跡です。JR山陽本線の南側には,ホテルや病院の下に石積みが残っています(写真17)。
また,JR三原駅の北側にも広く石積みが広がり,本丸の真上をJR山陽本線や山陽新幹線が貫いているのでした(写真18~20)。
(3) 小早川家墓所(市史跡)
小早川隆景の墓は,小早川家の菩提寺である米山寺(べいさんじ)にあります(写真21~24)。小早川家初代実平から17代隆景までの20基の宝篋印塔があります。小早川氏は13世紀初頭に板東から沼田に入った武士です。小早川隆景の墓には”平”の文字が入っていますが,元来小早川氏は上記のように源氏の血筋だそうです。
小早川隆景は兄吉川元春とともに父元就を支えた後,四国や九州に出陣して領地を得,朝鮮出兵後の文禄4年(1595)に秀吉の甥秀秋を養子に迎えて引退しました。小早川秀秋は関ヶ原の戦いの後岡山に移りましたが,慶長7年(1602)に死去して小早川氏は断絶したそうです。三原城は小早川氏が岡山に移封された後は,福島氏,浅野氏の支城となったそうです。
コメント
- いやー、まことに勉強になります。ミーアさん、ありがとう。 -- ヌシです 2013-11-04 (月) 12:07:39