ブログ/2013-12-01
国宝・不動院
ミーアキャットです。
広島市東区牛田に『国宝・不動院』があります。パンフレットより由来を引用しますとつぎのようです。
■不動院の由来
金堂内の本尊薬師如来座像が定朝様式であることから,平安時代の創建と推察されています。当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は,南北朝の戦乱で散った武士の霊を慰めるため,足利尊氏・直義(ただよし)兄弟が日本60余州に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。以後,安芸安国寺として,また安芸武田氏の菩提寺として繁栄します。
大永年間(1521-27),武田氏と大内氏との戦いにより伽藍は焼失します。その50年後に,戦国大名毛利の外交僧として,また豊臣秀吉の直臣大名として世に名高い安国寺恵瓊(あんこくじえけい)により再興されます。秀吉は当寺に一万五千石を与えましたが,当時の中央寺社に比較しても破格の規模でありました。
関ヶ原の戦いにより,毛利氏が防長に去り,安国寺恵瓊亡き後は,寺運は次第に衰えました。
福島正則が入国して,正則の祈祷僧であった宥珍(ゆうちん)が住持となり,宗派を禅宗から真言宗に改め,不動明王を本尊として不動院と称します。その20年後,新しい国主浅野氏が入り,浅野家歴代藩主の保護を受けます。
昭和20年8月6日の原爆に際しては,山麓という地理的条件が幸いし,災禍を免れています。一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって,昔の栄華を留める極めて貴重な存在となっています。
墓所には,豊臣秀吉遺髪塔,銀山城主・武田刑部少輔(たけだぎょうぶしょうゆう)の墓,安国寺恵瓊の墓,広島城主・福島正則の供養塔を初め,多くの宝篋印塔や五輪塔があります。
■安国寺恵瓊
安芸武田氏一族に生まれます。大内氏との戦いで武田氏が滅亡し,安国寺に身を寄せます(4~5歳)。以後12年間当寺で修行。やがて京に上って東福寺に入り,禅の修行を重ね,35歳のときに安芸安国寺の住持となります。毛利氏の外交僧として活躍。秀吉の中国地方侵攻の際には,毛利方の使者として秀吉との交渉に当たります。後に天下人となった秀吉から大名に取り立てられ六万石を与えられます。ただし,安国寺恵瓊は依然として毛利氏の顧問を務め,当寺や東福寺の住持を兼任。豪壮華麗な建築が次々に行われる時代風潮の中にあって,当寺(金堂・鐘楼・桜門等)や東福寺・建仁寺などの諸建築に功績を残しています。秀吉の命により朝鮮の役に出陣した折に持ち帰った木材で桜門を建造。秀吉が没し,関ヶ原の戦いにおいて,西軍に組し,石田三成・小西行長と共に,京の六条河原で斬首されました。享年63歳。
■桜門(国重文)
上層に『朝鮮木文禄三』(1594)の刻銘があり,文禄の役に従軍した安国寺恵瓊が当時の朝鮮から持ち帰った材木で建立したものと伝わりますが,建築様式が室町時代のものと見なされることから,安国寺恵瓊が朝鮮木を使って修復したとも考えられています。
■木造仁王像(県重文)
檜材寄木造玉眼入り。高さ2.8m。像内に永仁二年(1294)の銘があります。
■金堂(国宝)
大内義隆が周防山口に建てたものを,安国寺恵瓊が移築し,仏殿に改修。天井に描かれた天女と龍の絵には『天文九年・・・』(1540)と書かれています。
■木造薬師如来座像(国重文)
金堂の本尊。高さ1.4m,檜材寄木造。藤原時代。
■鐘楼(国重文)
永享五年(1433)建立。内部には,安国寺恵瓊が朝鮮から持ち帰った高麗初期の銅製梵鐘(国重文)があります。
■不動明王
■豊臣秀吉遺髪塔
■安国寺恵瓊の墓
■銀山城主・武田刑部少輔の墓
■広島城主・福島正則の供養塔
■多数の宝篋印塔・五輪塔
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