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ブログ/2013-12-26

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三上義夫博士・三上章博士

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写真1 三上義夫先生の顕彰碑

ミーアキャットです。
 広島県安芸高田市甲田町は世界的な数学史家・三上義夫博士と,その甥である言語学者・三上章博士の出身地です。

(1)三上義夫博士(明治8年2月16日~昭和25年12月31日)
 三上義夫先生は,明治8年(1875)に甲立村に生まれ,20世紀初めに日本と中国の数学史を研究し,その成果を英文で海外に発表したことで,『世界的数学史家』と評されています(安芸高田市歴史民俗博物館の資料より引用)。
 先生の母校・甲立小学校のグラウンドの一角には,昭和32年に建立された三上義夫先生の立派な顕彰碑があります(写真1~3)。

写真2 甲立小学校.jpg
写真2 甲立小学校

写真3 三上義夫先生顕彰碑.jpg
写真3 三上義夫先生の顕彰碑

 顕彰碑の文字は縦書きですがここでは横に書きます(顕彰碑に向かって右より)。

【畧歴】
明治八年二月十六日 甲立村に生る
明治三十八年 和算史の研究に着手
明治四十一年 帝国学士院和算史調査嘱託 大正十二年解嘱
明治四十四年 東京帝国大学哲学選科入学 後同大学院に入学
昭和四年   国際科学史委員会に選ばる
昭和八年   東京物理学校講師 後教授
昭和二十四年 東北大学より理学博士の学位を授けらる
昭和二十五年十二月三十一日 甲立町理窓院において没す

我国の数學史は我等に
確乎たる自覺の力を
賦與する

写真4 顕彰碑中央の文面.jpg
写真4 顕彰碑中央の文面(山田孝雄 揮毫)

【業績】
英文 和漢数学発達史 ドイツより出版
英文 日本数学史 デー・イー・スミスと共著 米国より出版
和算之方陣問題
文化史上より見たる日本の数学
関孝和の業績と京坂の算家並びに支那の算法との関係及び比較(学位論文)
関孝和の新研究
東西数学史
支那数学史(未刊)
日本数学史の新研究(未刊)

(注)前記碑文は,三上義夫先生が昭和6年に『日本数学史上の特色と功績』と題して行った講演の結論とした言葉の一部だそうです。
『我が国の数学史は,明らかに数学上の能力の乏しからざることを教え,我等に確乎たる自覚の力を賦与する。この事実は必ず数学教育上に有益なる効果を生ずべきものであり,充分にこれを利用すべきであろうことを力強く主張したい』(揮毫は,三上義夫先生と旧知の文学博士山田孝雄)

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写真5 三上義夫先生

 三上義夫先生は,東京で教授を務められていましたが,昭和20年に最愛の妻を亡くされたことと,空襲により屋敷が焼けたため,東京を離れ郷里の高田郡甲田町に帰郷されます。ここには,法源山理窓院という真言宗のお寺がありますが,晩年はここで暮らし亡くなられています。そこで,先年,理窓院を訪れ,住職さんにいろいろお話を伺いました(写真6~7)。

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写真6 法源山理窓院(本堂)

写真7 住職さんからお話を伺う.jpg
写真7 住職さんにお話を伺う

・三上家は,元は尼子氏の子孫で,毛利氏に下った後は,負けた尼子を名乗るのがはばかれるので,安国(やすくに;屋号)と名乗った。その後,三上姓に替えている。
・甲立の名家のひとつで,三次や吉田に行くのに,自分の土地以外を通らずに行けたという大庄屋であった。三上義夫さんは,『東京の旦那さん』と呼ばれていた。
・しかし,東京で傷心して甲立に帰ってからは,農地解放でほとんどの土地を失い,親戚を渡り歩いたが,どこでも気むずかしい人と言われて長く引き取るところはなく,この理窓院に来られた。
・理窓院では山門横の家で暮らした(写真8)。

写真8 三上義夫先生が暮らした家(改修後).jpg
写真8 三上義夫先生が暮らした家(現存の建物は改修後)

・甲立に帰ってからは不遇の毎日だ・・・とアメリカの友人に手紙を出したら,心配して大量の缶詰などを送って来た。これらを近所の子供に分け与えたので,子供たちには人気があった。
・林業の人が,500mくらい離れたところから山を見て,あの木は直径○㎝,高さ○mだから,大きな家の棟木に使える・・・などと言うものだから,和算の三上先生と山師連中は唯一仲がよかった。
・昭和25年12月31日,除夜の鐘を聞きながら,前述の山門横の家で亡くなった。

 その後,山門横にある石碑を見せてもらいました。『三上義夫先生終焉之地』と書いてありました(写真9)。

写真9 三上義夫先生終焉の地.jpg
写真9 石碑

 本堂では三上家の安土桃山~江戸初期(16~17世紀)の位牌を見せていただきました(文禄,慶長,寛永,正保,萬治,寛文,延寶など)。
 その後,三上家の墓所を案内してもらいました。石段の参道が200mくらい続き,とても立派な墓所でした。三上義夫先生の墓には,『三上義夫之命・三上武之命』と刻まれていました(写真10~12)。武(タケ)さんは義夫先生の従姉妹で夫人です。

写真10 三上家墓所.jpg
写真10 三上家墓所へ

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写真11 三上家墓所

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写真12 三上義夫・武さんの墓

・裏面『三上義夫室 三次近藤幸八郎三女 三上助左衛門安忠長男』
・右側面『昭和二十五年十二月卅一日帰天 享年七十八歳』
・左側面『昭和二十年一月二十二日帰天 享年六十八歳』

 三上義夫さんの遺物(卒業証書,学位記,遺稿,数学関係書類,手紙など)は,ほとんど古物商に売りに出されていたそうですが,地元の篤志家が私財を投じて買い戻し,甲田町に寄付したということです。現在それらは,安芸高田市歴史民俗博物館に保管されているそうです。

(2)三上章博士(明治36年1月26日~昭和46年9月16日)
 三上章さんは明治36年(1903),高田郡甲立村に生まれました。前述の三上義夫さんは正確には大叔父に当たります。
1920年 山口高等学校に主席で入学するも,自主退学し,京都第三高等学校理科に入学。
1924年 東京大学工学部建築学科入学
1927年 東大卒業後,台湾総督府就職。以後,朝鮮,日本で数学教師を務める。
    『街の語学者』として,日本語文法に関する画期的論文を多数発表。
1965年 大谷女子大学国文学科教授
1970年 ハーバード大学に招聘される。
1971年 死去
(上記略歴は,『主語を抹殺した男 評伝三上章 金谷武洋』より引用)

 三上章先生は,中学時代,数学の天才との評判であったそうです。数学者の叔父の三上義夫先生の影響があったのでしょうか。関東大震災後,建築学科に入学・卒業されていますが,建築家にはならず,数学の教師となられています。そのかたわら,日本語文法の研究に没頭されます。

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写真13 三上章先生

 英語には必ず主語を必要とします。しかし,日本語では主語がなくても通じます。それが,”日本語文法では主語を必要としない”という三上文法の主張なのです。

 三上文法を象徴的に表すときに,『象は鼻が長い』という文章がよく使われます。日本語では,このような使い方をしても全く違和感がありませんね。この文章の『象は』は,三上文法では『主題』であって主語ではない,『鼻が』は『主格』であって主語ではない,したがって,日本語に主語はないという解釈です。

 三上章先生の墓は,前述の三上家墓所の一角にあります。裏面には先生の著書名が刻んであります(写真14)。『象は鼻が長い』の著書名もありました。

写真14 三上章先生の墓.jpg
写真14 三上章先生の墓

・裏面『著書』
 技芸は難く
 現代語法序説
 現代語法新説
 続現代語法序説
 象は鼻が長い 
 日本語の論理 
 文法教育の革新
 日本語の構文
 文法小論集
 三上章論文集

(注:この記事は,福島県の知人に依頼され,数度に亘って関係場所を訪れて書いたものを再構成したものです)



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