ブログ/2014-02-11
国史跡・広島城 (1)
ミーアキャットです。
広島城は,太田川河口の低湿なデルタ上に築かれた大規模な輪郭式の平城です。別名”鯉城(りじょう)”などとも呼ばれています(広島城の説明看板より引用)。広島城は,天正17年(1589),毛利元就の孫・毛利輝元(1553~1625)により築城に着手されました。毛利輝元がこの平城の建設を思い立った状況はつぎのように説明されています(広島城総合案内のパンフレットより要約引用)。
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「天正16年(1588),毛利輝元は初めて上洛し,豊臣秀吉に謁見した際に,聚楽第・大坂城を訪れ,その豪壮さや町の繁栄を目の当たりにして,それまでの毛利氏の居城である吉田郡山城がすでに時代遅れであることを悟り,新しい城づくりを決意したと言われています。
そして,中国地方一帯を治めることができる城と,城下町建設のために城地として選んだのが祖父・元就が重視していた広島湾頭だったのです。
翌天正17年(1589)4月に築城を開始しましたが,この地が『広島』と名付けられたのは,この時であったとも言われています。
軟弱な地盤のために難工事となりましたが,急ピッチで工事が進められ,2年後の天正19年(1591)には輝元は入城を果たしています。城は慶長4年(1599)に落成しましたが,翌5年(1600),関ヶ原の戦いにおいて西軍の総大将だった輝元は破れ,徳川家康によって周防・長門(山口県)に転封させられました。」
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毛利輝元が退去後,尾張国出身の福島正則(1561~1624)が慶長5年(1600)に芸備地方を領し,翌慶長6年(1601)に広島城に入城して城郭や城下町の整備を行いました。しかし,元和5年(1619),洪水で破損した広島城の修築に関して,無断普請と徳川幕府にとがめられた事件に起因して広島城から退去させられます。同年,紀伊和歌山城主であった浅野長晟(ながあきら,1586~1632)が入城し,明治2年(1869)の版籍奉還までおよそ250年間,広島城は浅野氏の居城となりました。
江戸時代の広島城は,内堀・中堀・外堀の三重の堀に囲まれ,その規模はおよそ1km四方に及ぶという広大な城郭であったそうですが,明治以降外堀などの埋め立てが行われ,現在残っているのは内堀・本丸・二の丸です。昭和6年(1931)には天守閣が国宝に指定されています。しかし,昭和20年(1945)8月6日の原子爆弾により,築城以来の威容を誇っていた天守閣は爆風によって倒壊し,その他の門や櫓などすべて焼失しています。
昭和28年(1953)に,内堀・本丸・二の丸が国の史跡に指定され,昭和32~33年(1957~58)に天守閣が再建されました。また,平成6年(1994)までに二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が復元されました。
二の丸の太鼓櫓の二階には,時を告げる太鼓があります(写真5)。
二の丸の多聞櫓は,平櫓と太鼓櫓をつなぐ長さ約63mの長い櫓です(写真6)。
二の丸内には被爆樹木が2本あります。爆心地から740mの位置に『ユーカリ』,770mの位置に『マルバヤナギ』です(写真10~16)。
原爆の熱線を受けた南側は黒く焼けています(写真12)。
マルバヤナギは幹が空洞になっており,痛々しい姿ですが,毎年青々と葉を繁らすそうです(写真16)。
写真16 同上
本丸内には,爆心地から910mの位置で被爆した『クロガネモチ』の大木があります(写真17~19)。
天守閣のすぐ下には,昭和32~33年(1957~58)の天守閣再建工事の時に撤去された旧天守閣の礎石がそのまま移してあります(写真20)。
写真22 天守閣からの眺望
天守閣からは遠くに宮島が見えます(写真23)。
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