ブログ/2014-04-15
咽声忠左衛門 (のどごえちゅうざえもん)
ミーアキャットです。
広島県安芸高田市八千代町の江の川(ごうのかわ)の上流部に,国土交通省直轄の『土師(はじ)ダム』があります。現地の説明看板には,ダムの堤頂長300m,高さ50mの重力式コンクリートダムで,洪水調節・河川用水の安定化・都市用水の供給・発電などを目的とした多目的ダムで,昭和49年(1974)に完成したと書いてあります。江の川は日本海に注ぐ河川ですが,この土師ダムで貯水された水が,分水嶺を越えて広島市周辺や瀬戸内島嶼部に都市用水として供給されていることは,このダムの特色でもあります。
また,貯水池の『八千代湖』湖畔には,6千本の桜(ソメイヨシノ)が植えられているそうで,桜の名所としても有名です(写真3~7)。
ところで,安芸高田市歴史民俗博物館による,市制施行10周年記念事業の企画展『安芸高田人物伝~ふるさとに名を残した先人たち~』を見学に行きましたが,眼科医土生玄碩(1762~1848),刀匠石橋政国(1831~1896),数学史家三上義夫(1875~1950),画家児玉希望(1898~1971),画家和高節二(1898~1991)と並んで,義農咽声忠左衛門(17世紀後半)の名前がありました(写真8)。
それで企画展の見学の後,土師ダムを訪れて咽声忠左衛門の史跡をめぐって来ました。
八千代湖の湖畔に『のどごえ公園』と名付けられた公園があり,園内に『土師村の恩人・咽声忠左衛門』と書かれた大きな説明看板がありました(写真9~11)。
看板の説明はつぎのとおりです。
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土師ダムの湖底に水没している土師村は,昔,可愛川(えのかわ)(現在の江の川)に豊富な水が流れていながらこの水が利用できず,毎年水不足や干ばつで農民の生活は貧困を極めていました。
中土師に住む忠左衛門は,この貧困を救うため「江の川」の水を引くことを思い立ち,熱心に村人を説得し,寛文二年(1662)より用水路の工事に取りかかりましたが,工事は困難を極めました。手伝っていた村人も見切りをつけ,私財を注ぎ込み工事を続ける忠左衛門を誰も相手にしなくなりました。時の代官からは,「人心を惑わす不届き者」として罰せられ,手枷,足枷,首枷を科せられました。
その後,足枷は許されたものの,首枷を付けたままでも工事を止めなかった忠左衛門は,このため咽がつぶれ,村人は「咽声の忠左衛門」と軽蔑して呼ぶようになりました。
工事を始めて三年,身はやつれ骨と皮,目だけが光る悲壮な忠左衛門の命を賭けた難工事も,寛文五年(1665)に完成しました。
用水路の完成により,近隣の村々は干ばつで米の収穫がない年も,中土師の村では豊作が続きました。村人は今までの忠左衛門への仕打ちを恥じ,あらためて忠左衛門に感謝し偉業をたたえました。
用水路 幅 六尺 (1.8メートル)
深さ 二尺五寸 (0.75メートル)
延長 一・五里 (6.0キロメートル)
受益面積 五十町歩 (50ヘクタール)
この度,この公園を整備するに当たり,忠左衛門の遺徳をしのび,公園の名称を「土師のどごえ公園」と命名しました。
なお,忠左衛門は,土師地区の恩人として,現在土師大橋のたもとに「咽声神社」として奉られております。
平成6年(1994)4月
国土交通省土師ダム管理所
八千代町
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この公園の看板を見た後,土師大橋のたもとの民俗資料館を見学しました。館内に咽声忠左衛門の絵が掲げてありました(写真12~14)。
この資料館の咽声忠左衛門に関する説明文は,前記の『のどごえ公園』の看板の説明を補足できるものでありましたので,下記に引用しました。
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土師村は村の中央を可愛川が流れているため,これを有効に利用すれば,灌漑用水に不自由しなくてすむのだが,土木技術の未熟な時代にはそれも容易ではなかった。
上土師(かみはじ)と中土師では,水路を引くことに困難があったため,他村に比べて農民の苦しさはひどい状態であった。
寛文二年(1662)の秋,百姓忠左衛門は村の窮状を見るにしのびず,用水溝を掘ろうとして立ち上がった。しかし,途中に岩盤があって工事ははかどらず,測量技術の幼稚さも手伝って一向に水は通じなかった。初め協力的だった農民達は工事を投げ出してしまった。そのうち,忠左衛門は狂人扱いまでされて訴えられた。そのため,手かせ足かせの責苦にあい,咽がつぶれて声がかすれたので,人々は咽声忠左衛門と呼び始めた。しかし,忠左衛門は屈することなく,一人で作業を続けた。この彼の義挙に感激して力添えしてくれる人が現れた。山県郡南方村の庄屋・五郎右衛門であった。これがために,工事は急にはかどり,三年後の寛文五年(1665)に用水溝は完成した。水路は延べ7.6㎞,用水を受けた田は八町五反七畝二十七歩(約8.5ヘクタール)であった。
忠左衛門は義農として後世に名を残し,明治九年には記念の法要が営まれて,遺徳を讃える碑が建てられた。さらに昭和16年,権現山の麓・忠左衛門の墓所に隣して咽声神社を建立し,以来年々祭祀を続けていた。
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資料館の近くには『咽声神社』がありました(写真15)。由緒書きによりますと,昭和15年に奉建されたもので,土師ダムの建設によりこの地に移転したと書いてありました(昭和47年)。
神社の境内には,咽声忠左衛門の古い顕彰碑と,新しい墓がありました(写真16~19)。
写真16 咽声忠左衛門の古い顕彰碑(明治9年-1876-建立)
上の写真の石碑の中央には『咽声忠左衛門之墓』と刻まれていますが,安芸高田市歴史民俗博物館の資料によりますと,明治9年(1876)に営まれた追悼法要の際に建てられた顕彰碑と考えられているようです。この中央の文字の両側にびっしりと文字が刻まれており,この碑文が咽声忠左衛門に関する最古の記録だそうです(写真17)。
『日本の伝説21 広島の伝説,1977』によりますと,碑文はつぎのように書いてあるそうです。
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仰温此矢櫃井手之濫觴当村上中之耕田出水懸而積年旱損之害不少依玆昔寛文五年乙巳春百姓忠左衛門竭力而百余町工鑿大無所造水道普脱耕作患為報恩義
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難解な漢字に加え,古文に慣れない筆者には読み方も分かりにくいですが,文字を追っかけて見ると書いてある内容の雰囲気は分かるような気がします。
写真18 咽声忠左衛門の新しい墓(昭和47年-1972-建立)
上の写真の新しい墓は,咽声忠左衛門が作ったと言われる矢櫃井手(やびついで)を守ってきた関係者による建立と書かれていました(写真19)。井手が300年以上に亘って大切に守られて来たことを想い,咽声忠左衛門の辛苦と後世の人々の感謝の念に想いを致しました。
咽声忠左衛門の作った用水路は現在ではほとんどダム湖の下ですが,取水口の矢櫃井手はダム建設後も貯水池の最上流付近にその名残をとどめていると博物館で聞き,空中写真を携えて現地に行ってみましたが今回は水の下でした(写真20~21)。
なお,咽声忠左衛門の昭和初期に建てられた墓は,のどごえ公園の少し下流の湖畔にありました(写真22~23)。
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