ブログ/2019-08-23
新着情報の「ヒロシマに挑む」展に
小ヌシです。
先日、広島大学医学部医学資料館で開催中の「ヒロシマに挑む」展に行き、故秀敬先生の調査ノートや被爆岩石など貴重な資料を沢山見せてもらいました。写真1
ノートには原爆投下後の市内を何度も歩かれ、記録、標本採集された模様が分かりやすく記されています。写真の一部を貼り付けます。写真2―8
説明のパネルを読みながら、壊滅した市街を歩く先生の心情や原子爆弾の炸裂直後の岩石、瓦の表面が溶けるほどの熱線や放射線の下で、爆風で壊滅した瓦礫の中、ひどい火傷を負いながら火災から逃げ惑う人々の状況はいかばかりか、想像を絶する悲惨さを思うと小ヌシは今でも言葉を失います。
なお、調査ノートの内容などは広島大学総合博物館研究報告7号に「広島原爆の初期調査で収集された被爆岩石資料とその原爆放射線研究への利用」(静間・佐藤,2015)、と題して詳しく報告されていますので、ダウンロード↓してぜひ読んでみてください。
同じ敷地の大学病院の方には何度も行っていますが、こちらの資料館は恥ずかしながら初めてでした。当館では今まで何度も特別展示会が催され、また、常設の資料も多く展示されていました。写真9―12
小ヌシはこれから何度もお邪魔して「ヒロシマ」を学習したいと思いながら、厳粛な気持ちで資料館を後にしました。
参考
:ブログ/2019-07-17
:広島大学総合博物館研究報告7号P55より. ↓https://home.hiroshima-u.ac.jp/museum/siryou-data/kennkyuuhoukoku7/06%20shizuma.pdf
コメント
- 子供時分によく遊んだレンガ造りの建物群(旧・陸軍被服廠→旧・県庁→現・大学病院)が懐かしいです。 -- かやネズミです。 2019-08-23 (金) 21:32:03
- 旧県庁があったなんて知りませんでした。昭和25年前後のお話ですか?
子どもの遊び場は随分あったように思いますね。
大勢の年上、年下の子たちと一緒に賑やかに遊んだことが懐かしいです。
-- 小ヌシです 2019-08-23 (金) 23:37:14 - 県庁があったのは私が小学生だった昭和30年頃で国鉄宇品線の上大河駅は通勤客で朝夕ごった返していました。自宅の前を走る機関車はSLでしたね。宇品線は廃止され幻の0番ホームになりました。詳しくはこちら。
https://www.hotetu.net/haisen/Chugoku/140405ujinasen.html- かやネズミです。 2019-08-24 (土) 08:16:32